ザリガニの絵

 赤黒いザリガニの絵が、他のたくさんの絵と一緒に展示されている。多分A4サイズの画用紙に絵の具を使って僕が描いた物だ。付き添いで来た母は普段より少しだけ正装をしていた。確か僕が描いたザリガニの絵が何かの賞を取って、表彰式に出席することになっていた。もう25年以上前の事だ。幼稚園に通っていた頃かもしれない。いかにもオフィスビルといった感じの茶色い壁の建物だったと記憶している。他の人達が見守る中、名前を呼ばれた僕は少し躊躇しながらも前に出て、おじさんから表彰状をもらっていた。

 僕が通っていた幼稚園の近くに絵画教室のような場所があった。教室と言っても、東京にあるようなお洒落な画廊やアトリエのような建物ではなく、プレハブのような鉄筋の地味な建物だった。僕はそこに週に1回くらいのペースで通って、水彩画を描く事を習慣にしていた。絵の具を溶く為にいくつかの水入れに別れた小さな黄色いバケツのような物と、絵の具と筆を持って通っていた。そこで何かを教わったという記憶はない。でも絵を描いている時は余計な事を考えずに作業に没頭できたから、性格的にも合っていたんだと思っている。

 共同作業というのはあまり得意ではない。今も時々人見知りの気がある。でももちろん、大人だから相手を故意に威嚇したりはしない。野生動物でもあるまいし。ひとりの時間が好きだ。でも誰かと一緒にいるということにも同じくらいの安心感を持っている。でも誰でもいいのではない。誰だって特定の誰かがいるはずだ。一緒にいる時間で溜まったものはひとりの時間に吐き出して、ひとりの時間で溜まったものは誰かといる時に吐き出す。

 学校の授業は、図画工作の時間が好きだった。誰かと一緒に何かを作るという事はほぼないし、教室には他の生徒もいるけどある意味ひとりの時間になる。僕は要領がいい方ではないから、作りたい物のイメージが明確にあっても完成までに時間が掛かった。自分が納得するまで好きなだけ作業を続けられたらといつも思っていたけど、学校の授業ではそれは許されなかった。いや、本当に許されなかったんだろうか。僕が希望を先生に伝えて見ればよかったかもしれない。もしかしたら1年間同じ課題に取り組み続けるという形もあったかもしれない。

 皆が同じ物しか与えられず、同じ時間しか使えず、一律に評価される。同じ物を作るにしても、それぞれのペースがあるのだから、一定の時間で足りない人もいる。なのに時間が来たらその時点での作品でしか評価されない。そもそも何を評価されていたんだろう。当時の僕は皆と違う事を気にして、作業に集中できていなかった。一旦は先生が何を求めているのかを度外視して、自分の思うままにやって見れば良かった。今からでも遅くはないだろうか。うん、遅いとは全く思わない。

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