限界
自分に厳しい人は、他にどんなことがあっても、やると決めたことは絶対に実行する人物だろうか。もしそうだとしたら、僕はその人の足元にも及んでいないことになる。本格的に子育てに取り組み始めてから、まだ筋トレを再開できていない。あんなに筋肉に執着していたのにその気持ちはどこに行ってしまったんだろうか。そう自分に問い掛け始めると、それを打ち消すように「いや、そうではない」と無言で唱えている。子育てで体力を消耗して、先延ばしにしていることが少なからずあると強く感じている。
言い訳に聞こえるかもしれないが、自分の正直な気持ちを書いておきたいと思う。また同じ状況になったり気持ちが萎えてしまいそうになった時は、見返して糧にしたいと思っている。夜が明けて日付が変われば皆がそうするように、僕も毎日目覚めている。100%頭が起きているのではないけど、子どもは泣いているからその声で起こされたと言った方が正しいかもしれない。その前日の夕方頃には、明日こそは筋トレをしようと思って眠りについているのだ。そして結果的に言えばその気持ちは朝には萎えてしまっていた。
筋トレを始めようとする気持ちが萎えてしまっても、キッチンの向かいの壁際に置いてある鏡で自分の体型を毎日見ている。それだけではなく、洗面所で寝癖を直したり顔を洗ったりする時にも、腕の太さや張りをチェックしてしまう。チェックしてしまうと言うと悪い癖に聞こえるが、やはり自分の筋肉への執着は消えていないんだと改めて思う。しかし鏡を見ながら筋骨隆々の姿をいくら強く想像しても、実際にそれだけでは肉体的な変化はない。変化はあったとしても、それは筋骨隆々とは逆の体型へ向かうことになるだろう。
子育ては体力勝負だから、気持ちが萎えても仕方ないのか。子育てをしていなかったら、果たして萎えずに高いモチベーションのまま継続できていたか。それが可能な人間もいるだろう。ただ子育ては数ヶ月で終わるものではない。いつまでも続くわけではないかもしれないが、その期間中に全く筋肉に刺激が加わらなければ、筋肉は減ってしまう。減ってしまった時には自分自身にとても落胆することになるはずだ。例え肉体が永遠の物ではないと分かっていても。
自分の体力的な限界を見極めるのは難しい。疲れたと思っていても、美味しい物を食べれるとか、楽しみが待っていると分かっているとスイッチが入ったみたいに頭と身体が動き出すことは確かにある。僕は本当にもうこれ以上は何もできない、と心から思った日はない。手を抜いて生きて来たのではないけど、知らず知らずの内に余力を残したまま毎日を過ごしていたんだろう。本当の限界まで突き進んでしまったら、もしかしたらその時は自分という人間を保てなくなってしまうかもしれない。限界を遠くに置きつつ、自分を保てるギリギリを探りながら、出し惜しみはしないようにする。