眠りたい夜
今夜も彼は泣くだろうか。今夜も彼は鳴いて呼ぶだろうか。ロールカーテンを降ろして、キッチンから枕元への照明の光を遮っている。エアコンの涼しい風はキッチン側に向かって吹いているから、ロールカーテンによって行き場を失くしたそれは僕の所までは届かない。Tシャツを脱いで上半身裸でキーボードを叩いている。取り替えたばかりの照明は、蛍光灯ではあるけれど電球と同じ淡く薄いオレンジ色をしている。前よりも暗くなるかと思っていたらとても明るくなった。でもその光は目に優しい。その穏やかな光はロールカーテンで濾過されて、薄闇の中で彼の優しい寝顔だけをそっと照らしている。
東京の道路は車線が多い。そこに住む人のライフスタイルが十人十色であるように、消えかけたアスファルト上の矢印が、それぞれの行き先を告げている。頭上の案内板にはいくつもの地名が並ぶ。その割に次の分岐点までの距離が短いから、迷っている間に道を間違える。まだ先だけと思って、並んでいる最後尾の前車を車線変更して追い越した。しかし本当は右折したかったのに、右折ではなく直進専用の車線を走ってしまっていた。まっすぐ進むだけならどんなに楽かと思いながら、それでは辿り着けない事も同時に意識している。
24時間が長く、もしくは短くなるわけではない。それはどこに住んでいようが変わらない。ただ僕の意識している時間は、他の人達とは違っている。そして彼らの意識している時間もまた、他の誰かと全く同じということはないんだと思う。ひと段落した時に見たデジタル時計は、まだ午前10時を少し過ぎた辺りだった。最近の朝食にはマフィンを焼かずに、歩いてすぐのコンビニのサンドイッチが定番だ。サンドイッチと一緒に買うのはなめこの味噌汁だ。食べ合わせを考えてはいない。ただどちらもその時食べたい思っていたというだけだ。
眠れないのではない。眠りたいんだ。眠りたいのだけど、それよりも気掛かりな小さな彼が、小さいながら力強い呼吸を繰り返している。唸りながら拳を握って、両手を頭上に高く上げる。柔らかい関節の隙間を自ら拡げて、身体を大きくしようとしているみたいだ。目一杯上げた両手は、頭のてっぺんをほんの少し超えるくらいの位置にいる。今日は経過観察で病院に出掛けた。身体の状態を確認する為に、膝を伸ばされたり、股関節をぐるっと回したりされていた。もちろん当人は何だか訳が分からず泣いていた。予防注射はもっと泣いて、痛いと訴えて鳴くかもしれない。
また今日も夜がやって来る。いつもの夜ではない。いつもの夜だと思っていても、小さな変化は起こっている。何もしていなくても人間は変わり続ける。何もしないという状況に適応しようとするし、行動し続けていればそれに適応しようとする。「児を育てる」と書いて育児だが、本当は「児を通して自らを育てる」育自というのを結果的に行っている。夜はまた明けていく。昨日とは違う自分がいる。