自分以外
「自分」という言葉を多用してきた。このブログだけで数えてもかなりの回数になるはず。この言葉を繰り返し使っていると、一般的にはとても自意識が強い人間だと思われる風潮がある。自分に対して意識が高いのは悪いことではない。むしろ意識していても、他の人間とは共有できない心と身体のことを自身が一体どれだけ分かっているのかは怪しい。自意識が高いと思っている人間が人間としての自分をどれだけ理解しているかは、意識の高低とは別の問題のような気がしている。
やっと金曜日になった。それが素直な感想だ。そしてあまり自分に意識が向いていなかった1週間でもあった気がする。それはもちろん幼い息子に目と気を配ることが親の努めの最低限として、これほど自分以外の人間の一挙手一投足にまで気を揉んだことは今までなかったと言い切れる。信頼して敢えて相手に干渉しないという態度を取ってきたことはあったが、相手は何せお腹から出てきてまだ2週間も経っていない。寝て泣いて飲んで排泄をする。それだって自分ひとりではまだ全く完結できない。
彼に携わることで思い知らされる。全てをだ。人間が生まれて成長して大人になることが、いかに大変なことなのかを。言葉はまだ話さない。その時が来たら早かったなと感じるのかもしれないが、今の僕からしたら結構先だ。だから今は表情や口から出る音を聞いて、何となくこうしたいんだろうと毎回答え合わせをしている気分になる。言葉を使えば何でもないやりとりを、ずっと言葉にならない音を発して繰り返している。僕は知っている語彙を活用して話しかけるけど、通じているかは分からない。分からないから逆に伝わっていると信じて今日も話し続けた。
昼過ぎに中々寝てくれずに僕が抱き上げた。その間に妻に遅めの昼ご飯を食べてもらって、ついでに掃除機も掛けてもらった。息子は僕の顔と周りの景色を交互に見ながらじっとしている。そもそも僕の顔を見ていたのかな。僕の顔の奥にある何か根本的なものを探っているのかもしれない。時々その瞳がじっと見つめてくると、はっとすることがある。別にやましい事は何もない。ただどこまでも無垢なだけだ。ありのままの世界をありのままに受け入れる瞳。大人になってもそんな瞳で世界を眺められたら、世の中は随分と様子が違ってくるだろう。
失ってしまったものばかり考えていても仕方がない。失ったと言ったが、失ったわけではなくて忘れているだけかもしれない。子どもは大人になり、大人は子どもになる。子どもだった時間があってこその今なら、息子を通して忘れていた人間として大切なことを、もう一度思い出せるかもしれない。自分以外の人間は、自分を映す鏡のようなものだ。僕の姿もきっと息子にとっては鏡のようなもの。一息着く間もないほど忙しいと言えば大袈裟だけど、それに近しい時間を過ごしているのも事実だ。自分以外の誰かを想いながら、また自分も彼と同じ人間であることを日々教えられている。