10:21の電話

 僕はパソコンのキーボードを叩いていた。今日また病院から連絡が来ることはもちろん認識している。でもあまり考え過ぎないようにしていた。昨日の経過報告は順調と言っていたけど、まだ生まれて1週間だから、時間が掛かるだろうと心積もりしていた。昨日は11時過ぎに電話があったが、明日は今日より早く電話出来るとのことだったので、10時を過ぎると内心落ち着かなくなった。でも僕は動揺などしていないと自分に言い聞かせるように、画面をずっと見つめていた。

 作業をしていたパソコンの側に黒いワイヤレス充電器が置いてある。スマホ2台を同時に充電可能で、電圧もiPhoneに付いてくる物よりも少し高い。今そこには僕と妻のスマホが並んで置かれている。どちらもバッテリーは余裕だ。キーボードを叩く手はさっきから止めていない。止まると余計な考えが浮かんできそうになるから。と突然、妻のスマホが着信音と共に震え出した。昨日と同じ病院からの電話で間違いないはずだ。僕は落ち着いてスマホを手に取り、向こうの第一声を待った。

 昨日も電話をくれた病院の先生からだった。経過は順調とのこと。むしろ昨日よりも状態は更にいいと話してくれた。そして退院についても、都合が付けば今日でも退院が可能とのことだった。その言葉を聞いた途端に、僕は後がうまく続かず、スマホを妻に渡した。来院時に必要な物を電話越しに確認している間、僕は溢れ出ようとする涙を抑えるのに必死だった。レンタカーを借りる為に電話をした。前回は最初から申し込んでいたベビーシートを急遽外してもらうように頼んだが、今日はその必要はない。電話で予約し終えて、荷造りをして曇り空の下を歩き出した。

 感情的になっていてはダメだ。車の運転をするのだから。でも僕の中に積もり始めて山のように高くなったものが今にも崩れ落ちそうだった。日曜に行った回転寿司は随分落ち込んだ気持ちを前向きにはさせてくれたけど、この10カ月間一番会いたかった人の顔をまだ直接は見ていなかった。冷静でいなくてはいけないという思いが、背筋を立たせハンドルを握る手を固くした。車も初めて運転する車種だった。アクセルとブレーキの感触を確かめる。まだベビーシートに誰も座っていないが、座っていると仮定して運転してみる。極力路面の段差を拾わないように、もしくは拾っても最小限で収まるように意識しながら病院まで向かった。

 途中で買って行った菓子折は受け取ってもらえなかった。病院的にNGなのだろう。ダメ元で買って行ったから仕方ない。菓子折りだけでは、感謝の気持ちが全て伝わり切るとは到底思えないのだけど、形にしようとした心意気だけは受け取ってもらえた気がする。妻が入院を延長した分の精算を終えて、息子を引き取った。お腹が空いていたらしく、院内の授乳室でお腹を膨らませてから帰宅の途に着いた。

 息子へ。君がいつかこの文章を読むかもしれないことを想定して書く。父さんと母さんが君をこの腕に抱くのを、どれだけ待ち望んでいたかを言葉にするのはとても難しい。母さんのお腹に君が宿っていることが分かったあの日、父さんは下北沢の井の頭線のホームが見える場所で泣いていた。ホームで電車を待つ人に見られてしまっても構わないと思った。嬉しい時にも、人は涙を流していい。父さんは、母さんと君が分娩室で苦しんでいる時に側にはいられなかったけど、忘れないで欲しいのは、君に元気よく健康で生まれて来て欲しいと願っていたのは父さんと母さんだけではないということだ。母さんと君が痛みに耐えている時に励ましの言葉を掛けたり、君の身体を支えて哺乳瓶でミルクを与えてくれた人がたくさんいる。この先その人達に会うことはないかもしれないけど、きっと君の幸せを願っていると父さん達は信じている。もし何の為に生きるのか迷う日が来ても、感謝の気持ちを忘れなければこの世界は希望に満ちている。退院おめでとう。

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