『天使がくれた時間』

 大都会ニューヨークで、金にも女性にも何不自由なく暮らしている男がいた。愛人を引き連れ、会社社長として自由奔放に振舞う彼には、確かに並外れたビジネスの才能が備わっているのかもしれない。しかしその生活は、必ず戻ると約束したかつての恋人との別れの元に成り立っていた。自分の選択を間違っていたとはつゆ程も考えていない彼の日常は、立ち寄った店に現れた謎の人物の手によって変えられてしまうのだった。彼が次に目覚めた時には、現実が置き換わっていた。

 ニコラス・ケイジが主演していた『天使のくれた時間』という映画の冒頭のシーン。意外だったのは、後悔されたのがそんなに昔ではないということだ。西暦2000年と言えばもう20年前のことだが、自分にとっては遠い昔のようには感じない。2000年の前年である1999年には僕の好きな高倉健主演の『鉄道員』が公開されている。物語の舞台も時代背景も、2つの作品には共通点が全くないように思える。アメリカと日本。会社社長と鉄道の駅長。豪華な独身生活と、妻と子どもを亡くした質素な独り身生活。

 大学生の時には、この『天使のくれた時間』を元にした英語劇に出演した。僕はニコラス・ケイジが演じた主人公役だったのだけど、主人公の境遇や心情を推し量るのには余りにも若く、経験が足りなかったと振り返って感じる。本当はこうするべきだったと思っていながら、現実的に飽和した日常生活によって本心には靄が掛かっているのだけど、少しのキッカケですぐに意識の隙間から染み出していく。自分の生活には何一つ不満はないと大声で言うのは、実は少しずつ大きくなる迷いと不安を押し留めようとしているに違いない。少なくとも僕の目にはその主人公がそう映る。

 選んだ生活と選ばなかった生活。分岐点での選択に関わらず、どちらの場合の時間も流れている。平行世界などと呼ばれて、フィクションで描かれる事もある。そこにはもうひとりの自分がいて、僕とは違う毎日を過ごしている。本当にそんな事があり得るのだろうか。それを確認する術は今のところない。仮に確認できたとして、そのもう片方の生活と今の生活を入れ替えたいと思うだろうか。少しはその願望はあるのかもしれない。だから主人公の彼も、夢か現実かの区別の付かない世界で過ごしながら、次第にあわよくばと考え始めていた。

 でもそれはやはり彼にとっては現実ではなかった。自分が選択した結果もたらされた現実は変わらず、こうなっていたはずという非現実を見ていたのだ。物語は最終的にどうなるのか。ぜひ自分の目で確かめてほしい。ハッピーエンドなのか、そうでないのかは最後まで見ても分からないかもしれない。でもそこには大きな可能性があって、また選択の機会も用意されている。

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