夜明けの胎動

 妻を病院にひとり残し僕は30分ほど歩いた後に電車に乗り込んだ。時間はまだ朝の7時前で、車内の人はまばらだった。こんな早い時間帯に電車に乗るのは今まで数えるほどしかない。東京に来て最初の職場で、正月に新宿まで早朝の電車に乗って出勤した記憶があるが、きっと以来だ。昨日の夜から数時間しか寝ていないんだと思う。無事に家について汗を流した後、僕はサンダルを吐いてまた出掛けた。北澤八幡宮に向かって歩き出す。妊娠していることがわかった去年の11月の週末も同じ場所に来た。今日はひとりだけど、次はきっと3人で行くだろう。太陽が隠れて白くなった空には、もうあの時の風船は浮かんでいない。

 前日の夕方から日付が変わった今朝まで病院に何度も電話を掛けた。陣痛の感覚が6、7分になったら連絡してほしいと事前に説明を受けていたからだ。iPhoneのアプリで痛みの間隔を計り続けた。真夜中が近づくに連れ、今までは単純にお腹が張っていると言っていた妻の様子が明らかに違ってきた。痛がり方も違うし、痛みの場所も違うらしい。痛みが少しずつ下に向かって移動しているような間隔。僕の身体では起こらないであろう現象をかろうじて言葉にしてみる。

 計り始めた時は痛みの間隔にばらつきがあって、座っているより立っている時の方がより痛みも増していると言う。座ると落ち着いて、しばらく楽な状態が続くこともあった。そのうちに間隔が少しずつ縮まって、直近の1時間で7回程度の痛みがきていた。妻はアプリを見ながら、僕のiPhoneから電話をする。初産だし、仮にまだ病院に行く段階ではなかったとしても、状況を伝え対応方法を知れば冷静でいられる。夕飯を食べた後だったのだけど、もっとしっかり食べて、と指摘されたそうだ。すぐに出掛けられるようにと思っておにぎりとカップスープにしたけど、今朝病院に着いてしばらくするとお腹が空いていたらしいので、やはり量が少なかったのかもしれない。

 日付が変わってもいつものように眠るのは難しかった。妻曰く、僕は結構寝れていたらしいのだが、彼女はそんなわけには行かなかった。いよいよ痛みの間隔が5分を切ってきたので、再度病院に電話をした。それまで既に4回ぐらい問い合わせて様子を見るように言われたのだが、流石に側で見ている僕も限界だろうと思わずにはいられなかった。妻が病院側から色々と質問されている間に、僕は陣痛タクシーに電話をして、自宅近くまでの所用時間を確認した。10分弱で来てもらえるとのことだったのでそのまま配車を依頼した。押入れに入っていた入院に必要な物が一式詰め込まれたかばんを2つ夜中に出しておいたので、それらを抱えて玄関を出ると運転手がもう待っていた。

 病院までは約20分。普段ならあっと言う間の時間だろうけど、今朝は車内の時計ばかり見ていた。たった20分がとても長く感じた。デジタル時計の数字を見つめた所で、それらが早く切り替わるわけがないのに。隣で顔を時折しかめながら痛みに耐える妻を、もう僕は見守ることしかできない。出産に立ち会う事もできず病室にも入れない僕はナースステーションの前で妻と別れた。それからもう半日が経とうとしている。筋トレもいつもより集中できなかった。集中しようとして余計に神経を擦り減らした気がする。それでもいい。陣痛と出産の痛み以外の全てを、妻の代わりに行うつもりでこの10ヶ月を過ごした。果報は寝て待て、と言うけれど今夜もぐっすりとはまだ眠れそうにない。

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