昨日も明日も
母の子宮でとても小さな命の塊から始まって約10ヶ月を過ごした。外に出て来てからは両親を含めた身近な大人の真似事をしながらできることを増やしていった。そしてひたすら真似をし続けていた日々が終わり、自分の意志を持ち始める。あれがしたい、これがほしいと親の意にそぐわないことも増えてくる。でもまだ自分ひとりでは何もかもできるわけではないという現実を知ることになる。世界の深淵を見たような気になっていても、知らなかったことや未体験の出来事は次々とやってくる。
僕は生まれた時からずっと同じ人間であり続けている。当然と言えば当然なのだけど、生まれた時の自分と今の自分は本当に同じ人間だろうか。もう少し具体的に言うと、僕の肉体の細胞は33年間休むことなく、僕という人間を形成し続けているんだろうか。それはない。人間の身体は代謝する事を知っている。学校で習ったような気もするし、自分で買って読んだ本、もしくはふらっと立ち寄った本屋で偶然手にした本に書いてあったかもしれない。細胞の集合体である人間自体もいつかは老いて命尽きてしまうけど、細胞ひとつ取っても終わりがあるという点に変わりはない。
へその緒を通して受け取っていた栄養で養われていた僕の身体の細胞は、自分の口から摂取した栄養だけ届くことになった。最初の僕の身体の一部として一体となっていた細胞達はもうきっとどこにもない。古くなって身体の外に排出されてしまっただろう。塵になって漂っている間に、別の何かの一部になってやがて世界の一部になる。それは次に僕が口にする食べ物かもしれない。はたまた喉の渇きを潤す冷たい水かもしれない。そうやって世界は毎日変わっていくように見えるけれど、世界を構成している要素はずっと変わっていないのかもしれない。
今も僕の身体は絶えず小さなもの達が古くなったり、新しくなったり、入れ替わったりしている。僕の目には見えない。この先目にすることもない。でも僕が腕立て伏せをしている時、その小さなもの達がたくさん集まってできている筋肉が悲鳴を上げているのは感じられる。重力に抗いたいのだけど、小さきもの達は徐々にエネルギーを消耗して、僕が何度も筋トレを繰り返すうちにベテランが抜け、同時に新人を迎えながらいつの間にか全体がそっくり入れ替わることになる。鏡を見ながら自分の腕が太くなったとか気にしているけど、中では絶え間なく生まれるものと死んでいくものが隣り合わせになっている。
昨日の僕は、もう今日の僕ではない。明日の僕は今日の僕とは違う人間だ。でも完全には違わない。元いた人が職場を離れる前に新人に仕事を託すように、次の走者にバトンを渡す人と受け取る人のように、親と子のように、自分という人間の核になる部分はずっと受け継がれていく。昨日の自分はもういない。明日の自分のことを今日の自分は知らない。なら今日のこの時を精一杯生きる。