「お兄ちゃんだから?」

 今日も1日が終わろうとしている。そして今朝と同じように、夜が明ければ朝には太陽が街を照らし出す。週末の下北沢はまるで縁日のように人が多い。自粛の影響で夜でも閑散としていた街もある意味安心ではあるけど、あんなにマイペースで伸び伸びとしていて、僕が住みたいと思っていた街が縮こまっているように見えた。今夜お店から漏れ聞こえてくる声の中に、僕が混ざることはないが「やっぱこれが下北沢やな」と空気を震わせることもない小さな声が僕の中で響いていた。

 小学生くらいの男の子と、彼よりも身体の小さい女の子がそれぞれキックボードに片足を乗せて疾走していた。おそらく兄妹と思われるお兄ちゃんの方が時々ボードに乗せていない足を地面に置いて後ろを振り返っている。「ドコモショップに〜」と叫んでいたが、スマホでも買いにいくんだろうか。僕が小学生の頃はスマホなどもちろんないし、父が辛うじて折り畳めない携帯電話を持ち始めた頃だったので、時代はとんでもないことになっているなと根拠もなく勝手に思った。

 よくこんな言葉を耳にする。「お兄ちゃんでしょ、しっかりしなさい」とか「お姉ちゃんだから我慢しなさい」といった類の言葉。兄弟の中でも年長者に向かって放たれるこれらの言葉に込められた真意とは何だろうか?僕自身も4人兄弟の中で育ったから、自分の親から同じような言い方をされたことがあると思う。特別厳しく両親が僕に接したという感覚はないし、下の兄弟と比べられて嫌な思いをしたこともない。ただこれから自分自身が親になろうとしているから、子どもにかける言葉できちんと真意を伝えられるようになりたい。言葉の意味を考えることは決して無駄ではないと思う。

 人間が母親のお腹から出てくるタイミングは人それぞれ違う。誕生日が同じ人は確かにいるけど、遺伝子を受け継ぐ両親が違うから全く同じには育たない。例え双子以上だったとしても、環境に左右される可能性は多いにある。要は皆が揃って同じ体格を持って、同じ環境で、同じことができるということはあり得ないと言える。ある時点に置いて、先に生まれて来た人間は後に生まれて来た人間よりも成長していることになる。体格差があるだろうし、後から生まれた人間よりも出来る事が比較的多くなる。だから先に生まれた人に出来ることであっても、後から生まれた人はその時点では不可能なことになり得る。ということは、その違いを想像して必要な時には年長者が手を差し伸べることも必要になるということだ。個性ともいうべき個々の相違点を、人間同士が想像力を持って補い合うことの必要性。それを伝える為には「お兄ちゃんだから〜、お姉ちゃんだから〜」という言葉だけで足りているとは言い難い。

 子どもに限ったことではない。大人だって相手の状況を察して時には先回りして協力したり、敢えて手を出さずに見守ることをしている。仕事でも、そしてそれが例えプライベートであっても目には見えないものを想像して行動する場面はある。いわゆる「空気を読む」のとは違う。自分の気持ちを正直に表現することを押さえつけるのではなく、正直でありつつ他の誰かを想って行動できるようになってほしいという親の願いを言葉に込めたんだと思う。自分自身を大切にするということは自分だけを大切にすることではなく、側にいる人達も大切に思うということだから。

 完璧な親にはなれそうもない。今までのことを思い出し、もっとこうしておけば良かったと全く思わないかと問われたら首を縦には振れない。でも僕は過去に捕われて生きることはしない。自分なりに丁寧に33年間生きてきたから、ひとりの人間としてお互いを尊重し合い我が子と向き合っていけると強く信じている。

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