遅れること
前もって決めた、もしくは決められた時間に間に合わないというのはどういうことだろう。今の仕事を始めてから、今日初めて遅刻をしてしまったからというのもあるけど、「時間を守ろう」と小さい時から口酸っぱく言われ続けていることを改めて考えてみようと思った。遅らせるという言い方をすることもあるが、それは途中で時間が変更されただけで最終的に決められた時間であることには変わりない。時間に遅れるという事に対する感覚が昔と今とでははっきりと違っているので、どう違っているのかも含めて僕自身が言葉にしておきたいと思った。
いつもよりも早く目覚めたが始業までにはまだ数時間ある。その前に予定があるわけではないのでもう少し眠ろうと思った。次に目覚めた時には始業まで1時間。まだ大丈夫だと思い再度目を閉じた。30分前には起きれると踏んでいたら、案の定数分過ぎてしまっていた。毎日定刻通りに起きて仕事をこなし、料理を手作りして夕飯に食べる。時々は風呂にも浸かって火照りが微かに残る身体で横になる。明日もそうなると疑わず眠ったはずだったのに。気持ちよく目覚めたかったが1日のスタートとしては幸先が悪い。
時間に遅れた時に考えているのはまず自分の事になってしまう。後ろめたい気持ちになる、とか仕事に行きたくなくなるとか、誰かに叱られるといった具合に。ただよくよく考えてみると、時間に遅れて困るのは自分だけだろうか。事前に時間が決められているという事は、その時間に始めないと成り立たない事があるのかもしれない。それは自分だけではなくて複数の人間達が一緒に作業をする段取りになっている事もあるだろう。要は時間に遅れる事で気分を害するのは自分だけではない。実質的な損害が出る可能性だって充分にあり得る。だから開口一番「遅れてすみません」という言葉があるんだろう。
僕は無限の時間の中で生きているわけではない。自分の為に使える時間には限りがあるということだ。事前に計画していても予定通り進まないことはいくらでもある。仕方ないと受け入れることは必要だが、計画した通りに事を運ぶ為、もしくは望んだ結果を手に入れる為にできることを全てやったと言い切れない状態では、仕方ないと納得することもできない。事前に時間を決めてこれをやると決断したのに時間に遅れた時にも同じ思いをすることになる。たった1回の遅刻が最終的に人生を左右すると言ったら大袈裟に聞こえるが、どこでどうなるかは誰にも分からない。自分以外の誰かが遅れる事は、相手の時間を奪う事にもなる。自分に与えられた時間を目一杯使い切る為に、不必要な遅刻はないに越したことはない。
時間というのはひとりずつ与えられてはいるけど、自分ひとりだけのものでもないと大人になるに連れて理解するようになった。誕生日のケーキに刺さった蝋燭を部屋でひとり吹き消す時の寂しさ。家族の誰かの誕生日を祝う為にパッピーバースデーを歌っている時の幸せ。時間を共有しながら、ほんの短い一時の中に永遠に続くんじゃないかと思える感情を閉じ込めていく。それを糧にして僕はこれからも生きていく。