吸ったのは

 絵になるワンシーン。主人公は遠くを見つめながら眉を細めて胸ポケットから箱を取り出す。それと同時に金属のライターの蓋が音を放って開けられる。青い炎が真っ直ぐに立ち上がり煙草の先を赤く燃やした。吐き出された煙はあっと言う間に空気と混じって薄くなり、風がどこかに運んでいってしまう。肝心なのは煙草を吸う描写ではなく、後に残った吸い殻の行き先だ。どこを歩いていても、短くなって捨てられた吸い殻が目に付く。間違いなく人間が吸った物だということは分かるのだけど、そこに捨て去る人間の心理はいつまで経っても分からない。

 下北沢の駅前は今も工事が続いている。元々喫煙所があって、工事で撤去されるのかと思っていたら近くに場所が移されていた。最近開放されたばかりらしく利用者はまばらな印象。僕は以前からほとんど煙草は吸わない。だからと言って煙草を全否定もしない。なぜならそれは嗜好の一種であり、人それぞれ気分転換する方法が違うように、煙草や酒を愛することを間違った事だとは思わないから。ただそれはあくまでも個人の嗜みの域を出てはならないと思っている。誰かに強要される物でもないし、必要がないのなら堂々としていればいい。

 言い換えれば、それらを自分にとってメリットがあると思っている人間もいるし、そう思っていない人間もいるということだ。煙草を止めろと言われて不快になる人間がいるように、煙草を吸えと言われて不快になる人間も確実にいるということを想像してほしい。「煙草を吸え」と言うと極論かもしれないが、吸えと言われなくても結果的に近くの喫煙者の吐き出した煙を吸い込むことになる状況だってある。煙草に限ったことではない。自分の意向が尊重されることを望むのなら、相手の意向を無視することはできない。

 朝食で食べる為にスーパーにマフィンを買いに出掛けた。作り置きしたカレーを夕飯に食べた後だったので外は既に暗かった。駅の向こう側まで行く為に喫煙所の近くを通ることになる。多くの若者がそこかしこにたむろしていて、座って談笑したりお酒を酌み交わしていた。予想していたことだけど、喫煙所の外には吸い殻が散らばっていた。考えるまでもなく誰かが吸ってそのまま捨てていったんだろう。好きで下北沢に僕が住んでいるという理由だけでこの話をしているわけではない。次の日の朝になれば、その場所は綺麗になっているという事実だ。会ったこともない誰かが吸い殻を捨て、顔も知らない別の誰かがそれを拾って綺麗にする。捨てた人間は、拾って掃除する人間のことを想ったことがあるんだろうか。

 綺麗事を言っているのではない。不可能なことではないから。マナーというのはルールではなく、他人を敬う態度のことを言う。毎日綺麗にして頂いている人に直接「ありがとう」を言う代わりに、その吸い殻を持って帰ることだ。捨てる場所が用意されているならそれに従うことだ。全員は吸わない。吸ったのは紛れもなく自分だろ?

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