真実はひとつ、ではない
どんな生き方を選んだとしても、誰ひとり傷付けずに生きていくことはできない。誰も傷付けてないと思っても、そして誰にも反対されてないと思っても、それは誰かが言葉にしていないだけかもしれない。血の繋がりがあるかどうかに関わらず、賛同できることとそうでないことを誰しもが抱えている。自分以外の人間に変化を促すことに比べたら、自分の行動を変えることは難しくないはずなのに、自分に非があると思っている自分自身を否定したいから素直になれない。たったひとつの真実などないと思っている。でもその境界線なら皆で探せる。
言って良いことと悪いことがある。今まで何度も他人からそう言われて嗜められてきた。堰き止めていた自分の素直な感情のダムが崩壊して一斉に言葉になって口から飛び出すことがある。自分の口の大きさはそんな時でも大きくならないから、想定以上の水の多さにコントロールを失う。そして下流に向かって流れる水の量が随分減ってから何が起こったのかを知る。どれくらいの物を水で押し流してしまったのかは水が逆流しない限り、その場に留まっていては分からない。
自分が思っている以上に悪いか、良いかの大抵どちらかだ。「大丈夫」と言われたら、何の疑いもなく問題ないんだと思い込んでしまう。それが真実になる。あくまでもそう感じた本人の中だけの話だ。相手はどうか。本音は違うことだって充分にあり得る。気付いてほしいと思っているけど、適当な言葉が見つからないのかもしれない。大丈夫ではない、という真実だけをいつまでも抱えてその後過ごすことになる。
何が本当の事かは当事者だけにしか分からない。人づてに聞いただけの話では事実がどうだったのかは明らかにはならない。ここで言う事実というのは当事者達の感情や思いを抜きにして、誰が見ても聞いても取り違えようのない出来事のことだけ。その事実に対して当事者達がどう感じたのかというのは一括りにして説明できるものではない。人間の数だけ心があって、心の数だけその反応の仕方は違うのだから。
もしそれが事実だったとして、と言う時には自分がその当事者だったらという意味合いが強くなる。そうしなければ、踏み越えてはいけない境界線を土足で歩くことになる。土足では歩かないのだけど、最低限の靴は履いて想像力を目一杯使うことになる。想像力がなければ、もしとか自分だったら、という切り口で話をすることは叶わない。想像力が働いている間は、何かが大きく決壊することはない。自分が傷付いていたとしても、他の誰かを巻き込んで傷付けることはないかもしれない。
丸腰の相手に、自分だけ盾の後ろにいて長い槍で突き刺す。傷つく覚悟もない人間が、仮面を被って正義を叫ぶ。誰かを守りたいと言いながら、本当に守りたかったのは自分自身ではないのか。人間はあまりにも不完全であり、なのにどこまでもそれに寛容な生き物だ。