Tシャツはち切らし

 不意に腕に手の平を廻される。両手の親指と人差し指同士をくっつけて輪っかを作り、腕を囲まれた。その後にこれくらい、と言ってその大きさを見せられる。自分で思っていたよりも細いなと思う。Tシャツの袖にはまだ指数本が入る程度の余裕がある。どれだけ時間を掛けて腕を張らせたところでそのシャツがはち切れることは、今のところ起こりそうにない。Tシャツをダメにしたいわけでは全然なくて、シャツがはち切れる程鍛え上げたいと思っているという話だ。

 筋トレをしている人達は大勢いるだろうが、皆それぞれ目標は違う。なりたい体型も、鍛える目的も様々だ。僕の場合は、特に何か必要に迫られてという訳ではなかった。それは今でも変わらずに続いている。単純に鍛え上げられた身体がかっこいいと思っているから筋トレをしている。出来るだけ長く、年齢を重ねても継続したい。すれ違うおじいちゃんのシャツから覗く細い二の腕が目に入ると、自分の腕もいつかそうなってしまうんだろうかと不安になる。

 そもそもどれだけ鍛えても、僕はいつかやってくる「死」からは逃れられない。それは僕だけではなく今のところ人類共通のはずだ。肉体はいずれ焼かれて細かな塵になってしまう。暗く湿った地面の上に置かれるかもしれないし、波の穏やかな海の水に溶けるかもしれない。それでも鍛えたいと思うのは、鍛え続ける日々が肉体の変化以上のものをもたらしてくれるからではないかと思う。

 トレーニングは程度の差こそあれ、身体にとって負荷を掛けることになる。心臓の鼓動は速くなって息も上がるだろう。普段以上に汗もかくだろうし、着替えることも増えて洗濯する回数も増えるかもしれない。肉体の変化と合わせて生活にも少なくない変化が現れる。そしてそれは概ね良い変化であることが多い。体型の変化が現れるまでには個人差があるが、生活の変化はそれに比べれば比較的早くに実感できるようになる。食べる物を目的に合わせて変えたり、就寝と起床時間を変えたりはすぐに試すことが出来る。

 トレーニングをしていて一番の大きな気付きは、あくまでも僕個人の場合だが、集中するということがいかに難しいかということだ。今やっていることだけを考えるつもりが、つい終わった後のことを考える。そうすると今対峙している負荷に対して力が抜けやすくなる。もう止めようかなんて思ってしまうこともある。そんな時はどうするか。Tシャツの袖がパンパンになって肘を曲げると生地が破れてしまう、という妄想で何とか乗り切る。

 ちょっと何を言いたいのか分からなくなってしまったが、要は半端なく鍛えたいと思っているということ。それにはただトレーニングを繰り返し行うだけでは到達できないということ。でも到達できると信じなければどこにも行けないということ。

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