どんな父親でありたいか
例えば僕が喫煙者で父親とする。ベビーカーに小さな男の子を座らせて、スピーカーから周りに聞こえるような大音量で音楽を聴いていたとする。僕の指にはタバコが1本挟まれていて、煙を口から吐き出している。男の子は哺乳瓶にまだたっぷりと残っているミルクらしき液体を吸い続けていた。喫煙所でもなければ近くに灰皿が置いてあるわけでもない。ベビーカーのすぐ横で煙を吐いているから、その子もおそらく煙をいくらか吸い込むことになるだろう。何で大人が子どもに煙を吸わせている?小さな子どもは自分自身でその状況を選択することはできないのに。
僕はその親子のそばを通りかかった通行人だったとする。もちろんその親子に何かを言うわけでもなく、自分だったらどうするかと何となく考えながら去っていく。そもそもその彼と男の子が親子と決まったわけではないし、もしかしたら訳あって身内か誰かの子どもの面倒を見ている可能性だって否定できない。もっと思考を飛躍させるのなら、偶然タバコを吸っていた彼の前にベビーカーがやって来て、連れて来た誰かが用事を済ませている途中かもしれなかった。
色々な子どもがいるように、大人だって色々な性格や考えの人がいる。そんなバラエティに富んだ大人が育てる子どもなら、どんな風に育つ可能性だって排除できない。他の家庭がどのように子育てに向き合っているかまでは正直細かく把握できないし、把握したところでとやかく言うべきではないのかもしれない。なぜならそれはあくまで僕自身が正しいと思っているだけのことで、当人には響かないこともあるからだ。そして立場が逆になったら、きっと僕も頑なに受け入れることをしないこともあるだろう。
これから自分の子どもとの日々の中で、望まれるべき模範的な行動ばかりはできないかもしれない。但し、子どもが自分で選んで決断できるように接して行きたいというのはずっと根底にある。嗜好品の好みというのは千差万別だし、息抜きが必要なのは僕も同じだから悪いとか良いとは言わない。親がこうだったから自然となっていた、とか周りの人間がとか自分以外の外的な要因ばかりを挙げて、自分で決めたという感覚が希薄なままではいてほしくない。子ども自身が自分で取り沙汰選択できるようになる前に、強制的に巻き込ませるようなことはしたくない。
僕は今までに1回だけタバコを咥えたことがある。火を付けて吸い方を教わったけどうまく煙を吐き出せなかった。身体には悪いということが頭にあったから、煙よりも口の中で少し湿り気を帯びていた細長い棒をすぐにでも吐き出したかった。それ以来タバコはずっと吸っていない。お酒はそれなりに飲むことはあるけど、タバコは吸いたいとは思わない。僕には必要がない物。ただそれだけのことだ。
どんな父親でありたいかと書いたが、父親になった途端にまるっきり別の人間に生まれ変われるわけではない。だから僕にできることは、これまで僕が生きて大切だと感じていること、彼と一緒に過ごす時間がどれだけ尊いかということ、そして人生は他の誰のものでもない自分自身で切り開いていくということを身をもって伝えられたらと思っている。