忖度と思いやり

 ふと思った。「忖度」と「思いやり」という言葉がある。二つの言葉にはどんな違いがあるだろうかと突然思った。テレビで、忖度という言葉を一時期繰り返しずっと聞いていたような気がする。決まってその時に映っているのは政治家の場合がほとんどだった。言葉の意味を調べたからといって、急に明日から人に優しくなれたり、自分がやりたい事だけやって生きていくことが簡単になるわけではない。文字で書かれた言葉は容器の蓋みたいな物で、肝心なのは蓋を取らないと見えないその中身だ。

 他人の心を推し量ること。簡単に言うとそれが「忖度」という言葉の意味だ。言葉にはならない相手の要望を察する、という意味もある。調べて分かったことは、この言葉には推し量った相手の心情に対する具体的な行動までは言及されていないということだ。イメージ的には、何か公正ではなかったり悪いことを企んで行動に移すというのが一緒に付いて回るようだが、実際はそうではないらしい。言葉を聞いた人間に与えられる印象というのは、辞書に書かれている事だけでは決まらない。

 では「思いやり」という言葉はどうだろう。他人の気持ちになって物事を考えること、というのがその意味だ。同情する気持ちも「思いやり」という言葉で表せられる。「忖度」とは違って、「思いやり」という言葉には悪い印象は浮かばない。むしろ小さい頃からずっと人として持たなければならないと繰り返し色々な人から教えられてきた。どうだろう。二つの言葉に何か大きな違いがあるだろうか。これは僕の個人的なこじつけになってしまうかもしれない、と言った時には既に僕はブログの読者に忖度をしていることになるんだろうか。

 思いやりを持って行動する時、一旦そこに自分の主観的な目線は消えて無くなっている。自分は自分以外の誰かになって、相手の主観的な感覚を追いかけるような状態。完全に相手の主観になることは難しいかもしれない。ただ想像している。きっと喜ぶだろう。きっと悲しむだろう。相手の感情を想像すると自然と自分の気持ちも浮き沈みするようだ。ひとりでに笑顔が漏れて、ちょっと気持ち悪い人に見られるかもしれないし、相手に心配されるほど落ち込んで立場が逆転してしまったりすることもある。そこには利害関係は存在していない。

 世の中には、利害関係を一切無視して成り立つことばかりではない。僕の毎日の生活だって、利害関係からは完全には切り離せない。「忖度」という時には、利害関係が発生するという暗黙の前提で、相手の心情や要望を推し量っているように感じる。利害関係が発生することは悪いことではないし、むしろ経済はそれで回っているのだから否定はしない。社会生活を営む上で必要な感覚だ。

 今日の夕飯は塩焼きそば。ニンニクの芽とタコを入れる。スーパーによって値段が違う。少しでも安い方がいい。でも場所が少し離れているから歩いてまで買いにいく価値があるかを考える。まだ人手が少ないから移動しよう。途中ですれ違ったその人が何かを落とした。また会うことはないであろうその人の落とし物を拾って手渡した。家に帰る。大好きだったあの人が亡くなったと同居人が泣いている。どんな言葉もきっと涙を拭えないから、代わりに隣にそっと座って肩を優しく抱いていた。

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