不完全なりに
自分という人間のことを完璧だと思ったことはない。思ったことはない、と言ったが本当に一瞬でも思わなかったかと問われたら正直自信はない。瞬間的に自分のことを完璧だと思えた時はどんな景色を見ていたんだろう。きっと何かとても嬉しい時だったに違いない。良くないことが起こっている時は、精神的に打ちのめされそうになっているから、実際に完璧だったかどうかは別として完璧だなんて思えないだろう。だからその瞬間はこれ以上の幸せはないんじゃないかと思える時のはずだ。
後ろめたい気持ちを抱えている時は、なぜか自分以外の誰かのことが気になる。ずっと今までそこにあったけど気付かなかった出来物のように、急に目に付いて頭から離れなくなる。恋をしているとか、憧れを持つとかそんな前向きな感情ではない。自分にはなくて、その人にはあると思っているものが目に付くのだ。しかも自分にはないとか、その人なら可能だとか言う時、大抵それはそうであってほしいという根拠のない推測に過ぎない。
本来、その不完全さは自分の以外の誰かに転嫁することは出来ないはずだ。それは完璧な人間などどこにもいないのだから、不完全さを感じているのは自分ひとりだけではないということ。皆それぞれの方法でそれに向き合って生きている。それは生活をする家の中にあるかもしれないし、生まれた場所にあるかもしれないし、選んだ仕事を通じて立ちはだかるものかもしれない。自分の身体の外側だけでなくて、内面を掘り進んでいくように感情や記憶を整理していくと、どこかで決して弱くはない引っ掛かりのようなものに出会うことがあるだろう。
その不完全さから目を逸らしたいが為に、自分以外の誰かを傷付けたり物に当たったりして壊し続けるのか。生身の人間なんだ。刺せば血が出る。赤い血は流れていれば目で見ることも出来るが、目に見えないからといって血が流れないわけではない。血が流れ続ければ、立ち上がる力も徐々に失われていくし、今のこの肉体と精神で生きていくことが二度と出来なくなることだってある。取り返しの付かないことは、本当に取り返しが付かない。
テレビ画面越しでは本当のことは何も伝わらないのかもしれない。これは本当のことです、と画面の中で誰かが言ったとしてそれをどうして少しの疑いもなく信じられるのだろうか。自分の目で見ているはずのことだって簡単には信じたくない時があるのに、画面に映る人間の行動や言葉は鵜呑みにするのか。ただの純粋なエンターテインメントとして何も考えずに見ればいいのか。頭を空っぽにして、音も映像もスポンジのようにどんどん吸収する。本当なのかどうかは気にせず、思ったことを言って貶して侮辱して傷つける。その時その空間には自分以外はいない。放った言葉を向けられた相手の存在をどこに見ている?一番欠けているのは想像力じゃないか。
不完全なりに想像してみればいい。想像出来ないままでいて、命を削ることになるのは誰かを。