忘れていく

 雲が晴れて太陽の光が射し人々を街中に誘い出す。夕暮れ時の空気は、少し湿気っているけど素肌に心地良い。遅れて届いた光熱費の請求書の支払いをするという口実で散歩に出掛けた。最近出来た銅板が張り巡らされた三角形のビルにある猿田彦珈琲前のベンチに腰を降ろす。駅前の喫煙所はまだビニールテープが張られていて、その近くで煙草を吸う人達が見える。下北沢にも随分賑わいが戻ったような気がする。早朝や深夜には静まり返っていた通りも、今は明かりが増えている。そうやって僕達は少しずつ不自由さに慣れていた生活を忘れていくんだろうか。

 三省堂で次に読む本でも探そうと思ったのだけど、今日はシャッターが降りていた。これまで本屋には何度も足を運んでいるけど、毎回本を買うわけではない。もし毎回1冊ずつ買っていたら、自宅の本棚はおそらく大変なことになっているだろう。本は諦めて夕飯の買い物の為にスーパーへ向かって歩きながら考えた。昔から定期的に本を読む生活をしていた。読み返したくなる本にはその都度出会って来たけど、5年10年前に読んでいた本を今読んでいるかと言われたらその数はとても少ない。残してあったとしても読むことはほとんどない。

 今月は着ていない服を捨てたり、書類を整理したり断捨離が続いていた。本当に必要な物だけを手元に残したいと思っているし、本も例外ではない。読まない本は残しておいても仕方がないと思いつつ、一時でも魅力があると感じた本を捨ててしまうというのは、当時感じていた感情や気持ちを忘れてしまうような気もする。忘れてはいけないような気もするし、現在とこれから訪れるであろう未来を生きる上で何かヒントになりそうな気がしてならない。

 捨てられない本があるということは、その本にまつわる記憶や感情が人間の心を捉えてしまっていて、新しい発想や未体験の感動を受容する力を弱めてしまうんじゃないかとも思う。だから敢えて捨て去ってしまって、空いたスペースにまた新鮮な空気を取り込むかのように読んだことのない本を通じて新しい刺激を楽しむのもいいだろう。

 北沢川の緑道は定番の散歩コースだ。コンビニでおにぎりを買ってベンチで休憩しながら食べる。小さな男の子と女の子が目の前に設置してある滑り台で遊んでいた。お父さんとお母さんも一緒だ。滑り台は階段を上って上から下に向かって滑る、ということを誰も疑うことはない。少なくとも大人ならそうするだろう。おそらく兄と妹だと思われる彼らは違った。滑り台を逆から駆け上ったり、手を使わずに上まで上ったりと色々と難しい遊び方を自分達に課していた。誰もが知る遊び方ではない方法で、彼らは目一杯楽しんでいた。

 自由には動かない身体で生まれて、少しずつ自分の意思と身体の動きが一致していった。できることが次第に増えていき、繰り返すことで無意識に行動できるようになった。当たり前にできると思っていることが、実は当たり前ではないことを僕らは忘れていく。忘れそうになったら何度も思い返してほしい。自分がなぜ今生きていられるのかを。

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