墓を残すこと
仮に地球に生まれて住む人が増え続けて、それと同じ数の人が亡くなっていくとする。そうしたら亡くなった人の数だけ墓の数も増えることになるだろうか。1人につき墓がひとつというのはあまりないとしても、亡くなる人が増えれば同じ墓に入る人の数もずっと増え続けることになるだろう。そこで考えた。そもそも墓を形としてずっと人間が残し続けているのは何故だろうか。死んだ後に自分が生きていたことを忘れてほしくないからなのか。それとも今生きている人が死んだ人達のことを忘れないようにする為か。
実家にいる両親は今も元気で暮らしている。直接会うことが難しい今のような状況でも、スマホを使ってオンラインでなら顔を見て話をすることができる。父方の祖父母達は実家の家の近くの墓に入っていて、帰省する度に手を合わせている。束になった線香をばらして皆に少しずつ配る。兄弟家族が多いからたくさんは行き渡らない。それでも本数に関係なく僕らは静かに手を合わせる。小さな姪っ子達も大人の真似をして頭を下げて目を瞑っている。線香の煙が祈りを空まで届けてくれる。
もしその墓が無くなってしまったら、僕は祖父母達のことを忘れてしまうだろうか。僕が生まれたのは父と母が出会ったおかげ。父と母が出会ったのはそれぞれの祖父母が出会ったおかげ。祖父母が出会ったのは更に遠い先祖のおかげ。一体どこまで遡れるのか僕には見当もつかない。見当もつかないほどの過去から命が紡がれてきたわけだ。一体何人の先祖達にありがとうと言えばいいのだろう。僕が墓の前で手を合わせている時、会うことは決してないであろう名前も知らない遠い祖先達のことにまで思いを馳せている。
東京に住んでいる。これからも東京に住み続けると決めたから、毎日墓の掃除をしたり花を取り替えたりすることはできない。僕が実際に墓石の前で手を合わせるのは年に数回だ。それでも自分が何故今生きていられるのかを考えると、お墓で眠る祖父母を含めた彼らを思い出さずにはいられない。自分ひとりの力で全てやって来たとは思わない。そしてそれはお墓が近くにあるかないかは関係がない。自分の命は自分ひとりだけのものではないことは身に染みて理解しているつもりだ。
墓という、目に見える形で残さなければ死者を供養できないのだろうか。本当にそれが唯一の方法なのだろうか。形にこだわる余り、今生きている人間の負担になっていることはないだろうか。毎日墓石を綺麗に磨いて花を供え続けることだけが、祖先への感謝の示し方なのだろうか。僕はそうは思わない。亡くなった人達への敬意と同じかそれ以上に今生きている人達が過ごす時間は尊い。お墓が存在するということを蔑ろにしてはいけないが、その形が変わっていくことがそれを蔑ろにしているとは思わない。
生きていくことは変化し続けることだから、命絶えることが生きることの延長線上にあるとすれば、供養の形も変化していっていい。形あるものが全てではない。目に見える形がないからこそ人の心を捉えて離さないものだってあるのだから。