人間動物園
檻に閉じ込められた動物達を、人間が見て楽しむ。人間以外の動物が集められた動物園は世界中にあるのに、人間は他の動物から観賞される立場にはならない。散歩の途中で通り掛かったペットショップを見ながら考えた。人間がこの星で一番知能が高いからだろうか。世の中の構造的に、知能の高い生き物が知能の低い生き物を観賞することは許されているんだろうか。そんなことを考えて何か意味があるのかどうかは分からないけど、人間であると同時に一種の動物でもある僕は、どうしても自分と無関係なことには思えない。
小さい頃は僕も無邪気な子どもで、動物園や水族館に連れて行ってもらっては色々な動物の姿を恐怖や驚き、そして感動しながら眺めていた。実家で犬や猫を飼ったことはないし、一人暮らしを始めてから今までもその経験はない。犬や猫が嫌いなわけでもなく、生き物の世話をするのが苦手なわけでもない。金魚やカブトムシを育て、短い期間ではあったがハムスターが家にいた時期もあった。特別彼らに思い入れがあったわけではないが、父方の祖父母が田舎で耕していた畑の土に埋まっていた幼虫をもらってきて、成虫に育てて卵を産んで更にまた幼虫になるのを見た時のことは今でもよく覚えている。
これから先、僕がペットを購入して飼うことはないと思う。ペットショップに並ぶ囲いの中で退屈そうに寝そべっている犬もいるし、限られたスペースの中で元気よく走り回っている犬もいる。1匹ごとに値段が付けられ、訪れる人達を魅了する。そして世話がしやすいかどうか、血統がどうとか、病気になりにくいかなど購入者が検討材料にする要素はいくつもあるんだろう。色々な要素を加味した上で最終的に誰かが値段を付けることになるはずだ。
人の命に値段が付けられないとか思っていながら、なぜ他の動物には値段が付くのだろう。お金を出しても人の命は買えないはずなのに、ペットを購入する為にお金を出す人間がいる。人間の命が地球上で最も尊く、それ以外の命はある程度搾取されても構わないということなのか。そう言う僕も、毎日多かれ少なかれ生きていた動物の肉を摂取して栄養にして生きている。お金を出してペットを購入することが誰かの心の空白を埋めることがあるなら、お金を出して動物達の肉を食べることで、人間の肉体維持に足りないものを補うことも時には必要だ。心の空白を抱えたままでは前に進めないだろうし、栄養を摂取しなければ僕達は生きていくことが出来ない。
ご飯を食べる時に「頂きます」と言うのは、元は人間と同じように命あったものへの敬意の証だろう。好き嫌いは僕にもあるから、敬意を示しつつ食べたり食べなかったりすることはあるけど粗末にはしない。人間とそれ以外の動物との関係は、僕が生まれるずっと前から少しずつ形成されてきたはずの物だから、その構造が大きく変わることはないかもしれない。そうであるのならせめて人間も、それ以外の動物も尊重し合って生きていくべきだ。救うことが出来る命はひとつでも多く。そして救う為に奔走する人達に少しでも安らぎが訪れることを祈っている。