ありがたい

 臨月はまだまだ先のことだと思っていたのに、もうすぐ10ヶ月目に入ろうとしている。もちろん僕のお腹に胎児がいるわけではないので、妻が感じていることとの隔たりは多少あるとは思う。僕の身体は去年から大きな変化はなく、在宅勤務になって以降は運動不足気味なのが気になるくらいだ。お腹の大きくなっていく妻と歩いていると、今まで自分がどれだけ早足で歩いていたのかが分かる。今までは自分の目的地に向かって、自分の望む交通手段で、何の躊躇いもなく動いていた。物理的にも精神的にも、寄り添って歩くことの意味を考えるようになった。

 教えを乞いながらミシンで手作りマスクをひとつ縫い上げるのがやっとの僕とは違って、妻は子どものスタイやカバーオールを作ってくれている。自分の足が見えないほど大きくなったお腹では、次から次へとは作れない。身体と相談しながら、時々横になったりしてぼちぼち作ってくれている。外もかなり暑くなってきたので、散歩には出るものの長い時間は歩けない。部屋ではまだクーラーのスイッチを入れてないが、熱中症のこともあるので時間の問題だろう。

 ずかずかと歩いていては気付かないことは少なくない。周りの景色を一切見ないと言えば嘘になるかもしれないけど、基本的には進行方向にある物だけを見るか、目的地で何をしようかを考えていて風景はあまり記憶に残っていない。妻に合わせて歩調を緩める。上の方や横の方に目をやると今まで気付かなかった街の変化に気付く。通りのビルがいつの間にか足場とシートに囲われ姿が見えなくなっている。前回来た時には営業していた店が、業者によって内装工事が行われている。何もないガレージだと思っていたらフリーマーケットのように雑多な商品を並べたお店になっている。

 大きな変化ではない。SNSに投稿して話題にするほどのことでもないかもしれない。僕は含めた多くの人の生活は、四六時中何か劇的なことばかりで構成されているわけではない。僕の日常生活の大半は毎日の決まったルーティンをこなすことに充てられ、いつか来るその劇的な瞬間に備えている。その劇的な瞬間が具体的にどんなものなのかは分からないし、きっと日々の小さな積み重ねの結果としてもたらされるものだと思うから、むしろその些細な日々の生活にこそ価値があると思う。

 僕よりも先にお父さんお母さんになった家族や友人達から、子ども用の服や育児に役立つ道具を譲り受けることが出来た。調べると色々と必要な物があるなと思っていたのでとても助かっている。僕らが思っていた以上に集まったので、しばらくは服は買い足さなくていいかなと妻と話しているくらいだ。無事に生まれて退院する時には、本人が気に入ってくれそうな服を1着用意しようかなとも考えている。いずれにしろ今は2人の健康を祈りながら、その劇的な瞬間を待ち望みたい。

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