長TV電話
便利な時代になった。例え世の中の状況が許さなくても、お互いのスマホで顔を見ながら話をすることができる。直接会うことが絶対とは言い切れないし、時には画面越しの方がお互いの移動時間を奪うことなくコミュニケーションが取れるメリットもある。浮いた時間を別の事に使えるし、同じ24時間でも今までより有効に使えるかもしれない。しばらく会っていない家族との積もる話の間に、時間はあっと言う間に過ぎ去っていく。予期していなかった方向に話が展開することもあるけれど、それも生身の人間同士がやり取りしている証だ。
声だけの電話はあまり得意ではない。自分から積極的に話題を提供する人間ではないし、相手の顔が見えないとなぜだか素直に話せない気がする。その点、TV電話は相手の顔も見えるし表情の変化も分かるので話しやすい。自分から話し始めることが多くないことに変わりはないけど、個人的にはリラックスできる。今日も実家にいる家族とTV電話をしていた。先月くらいから回数が増えている。僕は在宅勤務だし、他の皆も産休中だったり時短勤務だったりで家にいる時間が長いみたいだ。
東京には僕の知らない人がたくさんいる。通りすがりに顔を見ただけで、その先二度と会うことはないかもしれない人がたくさんいる。そもそもすれ違っただけの人の顔を覚えていないから、もしかしたら何度も会っているけど記憶にないだけかもしれない。そんな人達が考えていることなんて分かりようがないのは当たり前だ。生まれた時から一緒に過ごして、ある時点で生活の場所が別になった家族のことも全て知って理解しているわけではない。全く同じことを考えていて、意見が完全一致することは難しい場面だってある。
人間らしさとは何だろう。僕が生まれる前から何人もの先祖が命を繋いでくれたおかげで自分が生きている。その流れの中で養われ伝えられてきた価値観がある。僕はそれをないがしろにするつもりは全くない。それでも敢えて自分の好きなように生きると言うと、誰かにとっては無責任に見えてしまうことがあるかもしれない。責任とは何だろう。形ある物をそのままの形で残すことを言うのだろうか。しかし形ある僕のこの肉体も含めて、時間が経てばいつか骨だけになったり塵になって消えてしまうだろう。
僕らは親を含めた先人達から何を受け継ぎ、後世に伝え続ければいいのだろう。敢えて言葉にするなら、僕は選択肢だと思っている。今まではこうだった、とか先人達はこうやってきたという価値観や知恵がある。そしてそれらを学んだ上でどう向き合っていくかを今生きている人間が考え決断することだと思う。時には既存の価値観が姿を変え、新しい生き方を生むことになるかもしれない。本人がそう決断したのなら、その意志は尊重されるべきだと思う。