風船の空

 下北沢の小さな医院の待合室で僕は天井を仰ぎ見ていた。外に出て階段を降りて井の頭線の脇で待つ。フェンス越しに見えるホームには人がまばらにいて、もうすぐ訪れるであろう冬の気配を何となく感じてはいるものの、まだ太陽が高く穏やかな1日を自由に過ごしているように見えた。その時の僕は自分の感情を探り損ねていた。素直に喜んでいいのかどうかはっきりとした確信が持てないままだった。不可抗力的な要素が多いと思っているから、達成感とはまた違って不思議ではあるけれど幸せな気持ちに包まれていたことだけは確かだった。

 子どもが出来たと分かったその日から既に9ヶ月が過ぎようとしている。今のところ元気よく育ってくれている。僕自身が今まで大病もなく健康に過ごせているけど、我が子の変化を身近にするとそれが決して当たり前のことではないんだなと身に染みる。命が宿るということは、到達点ではなくて出発点であると強く実感している。自分の両親もきっとやきもきしながら誕生までの日々を過ごしていたんではないかと、今になってようやく2人の心情が少しは理解出来るようになった。

 どれだけ強く望んでも授からない人達がいる中で、自分達は幸運にもその機会を得ることが出来た。目に見えないものの力のおかげとしか僕には説明のしようがないのだけど、我が子であると認識すると同時に一抹の寂しさが押し寄せる。今はまだ押し寄せるどころか、波風立たず穏やかな海の中を静かに揺れているだけなのかもしれない。妻の身体の一部となっている彼が、もうすぐ外の世界に出てくる。それからは誰の身体とも繋がっていない状態になり、自分の力で呼吸をして生きていかなければならない。少しずつこの世界に馴染んでいく必要がある。

 大きくなり背が伸びて力も強くなっていくだろう。届かなかった物に手が届くようになって、それでもまだ届かないものが次々と目の前に現れ、時には暗い影を落としてしまうかもしれない。僕らはずっと一緒にはいられないだろうから子離れをして、彼も親離れをする。離れるというけど、そもそも最初にこの世界に出てきた時から別々の人格を持つひとりの人間だ。魂の容れ物とでもいうべき肉体は別々のものだ。離れたまま時々近くに来て寄り添ったり、背中を押してより遠くに離れたり、その振り幅が大きくなっていくのが親と子の関係性だと思っている。

 診察を終えて妻が階段をゆっくりと降りてくる。僕は彼女に「よかったね」と明るく伝えようと思っていた。嬉しいはずなのにどうしていいかわからない感情が、もう喉の奥まで迫り上がって来ていたことを僕は気付いていなかった。言葉を発する為に口から出た音は、もう言葉にすらなっていなかった。井の頭線のホームから誰かが見ていたかもしれない。でも僕は構わない。最後にあんなに涙で顔が崩れてしまったのはいつのことだったろう。

 病院を後にした僕らは、北澤八幡宮にお参りにいった。何とも言えない清々しい幸せな気持ちにしてくれた何かの力に感謝を伝えたいと思った。お参りを終えて帰る途中、右手の空にたくさんの風船が浮かんでいるのが見えた。色とりどりの風船が軽やかに宙を舞っている。写真に写った風船は小さ過ぎてよく見えなかったけれど、まぶたに焼き付いたその光景を僕がこの先忘れることはないだろう。

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