金銭感覚

 死ぬまで自分の思い通りに生き続ける。どんな状態にあっても、僕はそう信じ続けることが出来るだろうか。例えば今働いている会社から給料がなくなったり、自分自身の健康を損なったりして仕事はあるのに働けなくなったりすることがあるかもしれない。想像上の話ではなくて、現在世界が直面している事態で、実際に職を失ったり収入が減ることによって生活が危機に瀕している人が少なくないという。僕は会社の判断によって在宅勤務になったが、ありがたいことに給与も今まで通り支払われている。だからこそ逆に何かに完全に寄り掛からずに生活の基盤を築いていけるようにしたいと強く思う。

 安くて長持ちしない製品よりも、値段が高くても質が良くデザインが自分の好みに合う物を買うことが多い。長く使えて結果的にランニングコストが安く済めばそれで充分対価は得られると思っている。値段が高いと言っても、特別高価な物を買っているわけではない。初見で気に入ったと思っても、衝動買いのようなことはせずに一旦店を出る。気持ちが昂っているから、冷静になって商品のことを可能な限り調べてみる。その上で本当に自分がそれを欲しているのかどうかを吟味する。

 自分にとって魅力的だと思う製品が出た時に、それが必要かどうかはあまり考えない。考えないと言うと語弊があるかもしれないので言い換えると、必要かどうかを考え出すと本当に必要な物はそう多くはないように思える。無駄遣いを容認しているわけではないし、大量生産大量消費を奨励しているわけでもない。初見で見た印象の強さと、時間が経ってもそれを欲しいと思っているかと、出来るだけそれを長く愛用することが出来るかを自分に問うている。

 値段が安いと、いざという時にまた買えばいいかと思って粗雑に扱ってしまうかもしれない。値段が高ければ、例えば壊れるリスク等を考えて大切に使おうとなりやすい。一概に安いから長く使えないとはもちろん言い切れない。高価でも自分の好みに合わないこともあるだろうし、価格の割に壊れやすい製品だってある。要は自分が本当に気に入った物を、手足のように馴染むまで使い続けたい。そしてそういった物に囲まれて生活が出来たら、きっと毎日が充実すると思っている。

 足りないと思っているものを考え出したらきりがない。僕は今のところ生活に不自由はしていない。それは本当にありがたいことだ。健康でいられるし、毎日食事も充分取れている。トイレに行ったら水が流れる。シャワーを浴びる為に蛇口を捻れば冷たい水も熱いお湯もいつだって出る。出来ないことばかりだった人間は、成長するにつれて出来ることが増えていく。出来ないことがなくなってしまわないように、自分に足りないものを探して手に入れようとする。そんなことしなくたって、もう充分過ぎるほど手にしているはずなのに。

 聖人君主のようには生きられそうにはないから、僕はこれからも自分に足りないと思うもので悩むこともあるだろうし、欲深く生きていくことになる。でも自分が既に手にしているものは片時も忘れないでいたい。

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