昔も今も、この先も

 僕はこの先もずっと僕のままで生きていく。iPhoneを家に置き忘れたことに気付いたのは、昨日の夕飯前に軽く近所を散歩しようと言って出掛けた後だった。冷蔵庫に足りない食材を少しだけ買い足してすぐに帰宅した。スマホを開くと家族の誰かがラインでテレビ電話をしていたので参加してみた。画面越しではいつものように、父親が発泡酒片手につまらないギャグを言いながら笑っていた。妹が弟に「老けたな」とぼそっと言っていたので、自分はどうなんだろうと思って聞いたら「前から変わらない」と言われた。声には出さなかったけれど、悪い気はしなかった。

 童顔なのかあまり実年齢を言い当てられたことがない。30歳からもう3年過ぎているのだけど、まだ20代のつもりでいる。少なくとも気持ちだけは20代に負けないようにしているつもりだ。20代の人間に負けないというはっきりした根拠はないのだけど、20代の頃の自分より今の自分の方が好きだ。肉体的にも精神的にも充実していると思う。そんな中で、身内からではあるけれど見た目が変わらないと思われているのは、ある意味自分らしさというのを失っていないからなのだと思う。

 映画館がまだ全席指定ではなかった頃、僕は両親によくゴジラを観に連れていってもらった。当時は上映ごとの入れ替え制にもなっておらず、劇場に早めに着いたらそのまま場内に入って席に座ることが出来た。そうすると、まだ前の回の上映が終わっていないので、クライマックスでゴジラが敵を木っ端微塵に吹っ飛ばす場面を見ることが何度もあった。映画本編を楽しみにはしていたのはもちろん、入館時に登場怪獣達の小さな人形をもらえる特典があったので、それも決して小さくはない楽しみのひとつだった。

 ゴジラは最早自分と比較出来る人間ですらないが、戦隊ヒーローや学校で運動神経が良くて体育の授業で皆の注目を集める同級生のように、自分にもいつか彼らのような劇的な瞬間が訪れて誰かの注目を浴びる日が来ると思っていた。今もそう信じているのだけど、まだ訪れてはいない。コンプレックスと言うほどではないのだけど、華やかに見える人間への憧れのようなものはずっとあるのかもしれない。自分とは種類の違う生き物のように映ることもあるが、実際のところ彼らも僕と同じ人間なのは間違いない。

 同じ人間なのであれば、僕にもその劇的な瞬間を迎える可能性は充分ある。そもそも劇的な瞬間とは何だろう。僕が目にして来た誰かにとっての劇的な瞬間とは、突然雲が割れ稲妻を制し光が射すようなことなのだろうか。奇跡としか思えない要因もあったかもしれないがそれはほんの一部で、大部分は当人の目標への強い思いからもたらされる日頃の行動の賜物だろう。そしてそれが結果として鮮烈に人々を魅了したのだと信じたい。

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