16kgを背負って

 自宅でリュックを背負って腕立て伏せをやっている。在宅勤務になる前からだ。以前使っていたカジュアルなリュックサックでは、それ以上ペットボトルを詰め込むことができなくなった。リュックサックにして見れば腕立て伏せの負荷を上げる為に、汗だくの持ち主の背中でじっとしているのは本望ではないだろう。ネットでオレンジ色の背の高い新しいリュックサックを買った。本格的な見た目のそれは、今まで詰め込んだペットボトルを移してもまだまだ余裕だった。

 今年に入ってから、リュックに詰め込んだペットボトルの数がしばらく増えていなかった。1月中旬の本数からずっと変わらず、トレーニングの頻度も少なくなってしまっていた。その日トレーニングを休んで、明日はしっかり追い込もうと思いながら翌日を迎える。翌日も同じような思考に陥りがちになる。休むことは全く悪いことではない。ただ休み出すとそれが習慣になってしまう。休むと決めたのは自分なのに、やらないとそれはそれで気持ちが悪い。

 数日前にやった腕立て伏せ。いつものようにリュックを背負った。リュックの中にはペットボトルが7本で合計14kg入っている。10回できたらペットボトルを追加するというマイルールに従う。腕立ては脇を極力締めて、上腕三頭筋を意識して狙う。腕を伸ばした状態から始めて、胸が手の平に触れるまで下げて1回と数える。10回達成したいと思うと、手の平に付く前に肘を伸ばしがちになる。腰も下がりやすくなるのでお腹にもしっかり力を込めて行う。

 8回目くらいの感触で、10回目に到達できるかは何となくわかる。長いこと負荷が増えていなかったので、8回目ができた時にはもう何が何でもという気持ちで身体を持ち上げた。妥協して手の平に触れる前に上げてしまえば楽だろうとも思う。でもきっとそれをしたら、僕は納得できないまま夜眠ることになる。それは絶対に嫌だと思った。昨日までの自分を超えて、その先の可能性を感じたいと思った。歯をあまり食いしばらないように気を付けつつ、最後の10回目に気力を注ぎ込んだ。そして僕は次の日からペットボトルを8本リュックに詰め込むことになる。

 筋トレは苦しい。ジムに行かず自重とペットボトルの重さを利用しているとは言え、しっかり追い込むと息が上がる。汗もたくさん掻くし、水も何度も飲む。もちろんメリットがあるからやっている。筋肉を付けて理想の体型になりたいと思うし、肉体の充実感を根源にした強靭で安定した精神でありたいとも思う。苦しい状況に敢えて飛び込んでいく時の心構えのようなものを表現するとしたら、それはどんな言葉を通したらいいだろう。

 又吉直樹の『東京百景』の中にこんな一文がある。「苦しい人生の方が、たとえ一瞬だとしても、誰よりも重みのある幸福を感受できると信じている」。又吉さんがこの一文を書いた背景までは僕にはわからない。彼の言う苦しさが、どれだけの苦しさを言っているのかも正確にはわからないだろう。トレーニングで身体を動かして、もうこれ以上腕が動かないと思えるほど追い込んだ。次の日にその腕がものすごく太くなるとかはないけど、気持ちは清々しい。今日の全力を出し切ったと信じて疑わず入る布団はとても心地がいい。

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