『人間』を読んで

 夏休みの宿題で出た読書感想文が嫌いだった。国語の授業はもっと苦手だった。テストで登場人物の心情を問われると、正解なんてみんな違うだろうと思っていた。そんな僕も今ではほぼ毎日何かしらの本を読んでいる。小説も読むし、時々自己啓発本やビジネス本も読む。今回読んだ又吉直樹の小説『人間』は、随所に人間臭さがふんだんに盛り込まれている。思わず目を背けたくなるような、ある意味読者の人間性を丸裸にするような1冊に感じられた。

 昨日も少し触れたこの小説。3章構成になっており、第2章で主人公・永山は、東京で共同生活をしていた頃の住人で芸人になった影島と偶然とは思えない再会を果たすことになる。影島の永山への知られざる思いや、創作や世間への向き合い方など酒を酌み交わしながら話をする中で、何か堰き止めらていた重しが外れ、枯れたと思われていた創作の泉から再び水が湧き出すような感触を永山は掴むのだった。影島と別れた後、永山は書き溜めていた作品を出版することになり細やかながら話題にもなるのだった。

 第3章では永山の両親の故郷である沖縄を主に舞台にしている。永山の作品が随筆の新人賞に選ばれて、そのお祝いがてら、沖縄に親戚一同が集まることになったのだ。永山の母親の描写は、天然なところが多々ある自分の母を思い起こさせた。彼の父親は、自分の父親を思い出させることはなかったのだけれど、不器用さを誇りもせず、かと言って卑屈にもなるわけでもなく、ひとりの実在するであろう人間の現実感を持って描写されていた。

 数年前の東京に向かう日の朝。僕は「行ってくる」と言って実家の玄関前で両親に手を振った。白のハイエースをレンタルして、荷室には必要最小限の荷物や家電を積んで出発した。澄ました顔で運転していたと思うけど、内心とても肩肘張っていたと思う。何者かになりたい人達が集まるのが東京、という何の根拠もない理屈を唱えながら。最初から東京都内に住めたわけではなかった。仕事が決まってないと部屋を探すのは難しい。直接そう言われたわけではないけど、おそらくそういうことだったんだろう。

 当たり前だけど、東京にも沖縄にも人間はいる。沖縄には行ったことがないし、どんな人達が生活しているのかはあまり詳しくは知らないけれど、間違いなくそこには人間が生活して暮らしている。東京にも人数の差こそあれど、人間が暮らしている。肩肘張ったような人ばかりだと思っていたけど、それは様々な背景を持つ人間がいる中の一部で、東京の人間は彼らだけではなかった。上京して初めて見たお笑いライブは、渋谷の無限大ホールで見た又吉直樹の「実験の夜」だった。たくさんの人間が、自分達と同じ人間の姿を見に来ていた。

 小説が発売になって『人間』のトークイベントにもチケットを買って参加した。舞台の近くの、おそらく報道用だと思われる撮影用のカメラのすぐ後ろの席だった。僕の目の前で小説のことを話す又吉さんも紛れもなく僕と同じ人間だった。器用だとか不器用だとか、そんなことに囚われずにありのままで生きている人間が、僕が知らないだけで確かに生きている。元々全てをうまくやっていくなんてできないのだから、自分という人間の拙さも許してこれからも生きていきたい。

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