死ぬまで人間
もう取り返しはつかない。決して悲観的な考えで言っているのではない。人間として生まれた以上は、この命が尽きるまで人間を放棄することは絶対にできない。どれだけ醜態を晒しても、結果的にどれだけ誰かを傷付けることになっても人間をやめることはできない。人間としての可能性に縋り付いて生きることになる。頭が回らなくなっていつもより時間が早く進んでいるような気持ちになる。大人の身体になってから、ずっと容量のかわらない脳味噌を振り絞っても、一滴の液体すら出てこない。しかし放り出したくはないから、手を握ったり閉じたりしてじっと構えている。
又吉直樹の小説「人間」を読んだ。前作の「火花」と「劇場」に続く、三部作の最終章とでも言うべき一冊だ。過去作からの時間の経過を感じさせる物語。いずれの小説の登場人物も、もしかしたら東京の街のどこかですれ違っていて、それぞれの人間としての物語は本人達が気付かない形ではあるけれど交錯していたかもしれない。自分の才能を信じて疑わなかった日々。他人ではあっても、やはり同じ人間であった人々との恋愛や摩擦。そして避け難く出会い、また別れを繰り返す。登場人物達の背景は作品ごとに違うけれど、フィクションとしては収まりきらない人間臭さが漂っている。
小説「人間」の主人公・永山。かつて漫画家を目指していたのは昔の話。今は細々と文章を書く日々を送っている中年の男だ。芸術家が集まって共同生活をしていた頃の苦い思い出に囚われ、将来への不安に苛まれながら暮らしている。ある日知り合いから送られてきた一通のメールによって過去の辛い出来事を思い出さずにはいられなくなっていた。共同生活をしていた住人達で開いた個展で、永山が発表した作品が発端となりある事件が起こったのだった。
自分には何かしらの才能があると信じて疑わないのは問題なのか。発表した作品で『罪』という言葉を使って、自らに問いかけることになった永山。周りの人間とは一線を画しているという自意識の割に、創作の芽のようなものは一向に掴めない。上京して漫画家を夢見ていた日々の無限大とも言える自由な想像の泉は、東京に来て他人と関わる中で水が枯れかけ水源は絶えようとしているように思われていた。他人と自分とを比較し、周囲の人間の意見を跳ね返す力も持ち合わせていなかった。
才能とは何だろう。他人の才能の話をするのは好きなのに、自分の才能の話を嬉々として自ら口にする人は少ないように思う。才能というのはただの言葉であって、自分以外の人達を区別する為の都合のいい道具みたいなものにも見える。自分の見たい夢だけ見ていてもいいと言いながら、他人の顔を伺っている。何度もそれを繰り返してきたような気もする。安定しているというのは心の状態を言うのであって、それは他人の考える基準には収まりきらないものだ。