日常という名の幸せ
4月も終わりだというのに朝はまだ少し肌寒い。時折風が吹いてパーカーの裾を揺らす。熱めのシャワーを浴びて身体は温まっているはずなのに、僕は思わず肩をすくめた。桜はもう散ってしまって青々とした葉が繁っているだけの木々だけど、これから訪れるであろう季節を待ちわびている。今日は病院で検診の日。僕は妻に付き添って、電車とバスを乗り継ぐ。街を行く人混みが随分少なくなってはいたけど、僕の住む東京の街は今日も東京そのものだった。
バスに乗り込み後方のふたりがけの座席に座った。車内の窓が所々開けられていて涼しい風が通り抜ける。僕は病院に着いても、中には入れない。自分と妻と子どもの身を守る為とはいえ、歯痒い気持ちは拭えない。病院でバースプランなるものを記入する用紙を前回貰っていた。計画して妊娠したという意識はない。もちろん出産とそれ以降についてを記入する意図なのだろうけど、元気で健康に生まれてくれるのを一番に願っている。
病院に着いて検診がどれくらいで終わりそうか聞いてみた。前回は思った以上にすぐ診てもらえたので期待していたが、結構かかりそうだったので先に自宅に戻ることにした。病院近くのバス停で待つ。斜め後ろでは店舗の解体工事をやっていて、看板が掛かっていたであろう壁から飛び出したネジのような突起物を電動ノコギリらしき道具で削り取っていた。通行人が通る度に現場監督のような男性が作業を中断させ、通り過ぎると火花を散らしてまた作業を再開する。
帰りのバスは空いていた。行きに通った道をただ逆方向に進むだけのシンプルなルートだ。座席に座っている人達はまばらで、皆マスクを付けている。いつもなら終点の少し手前で降りてお気に入りの中華料理屋で腹ごしらえをするのだけど、ここ最近は店に入ることなく通り過ぎる。いつもテキパキと働く店員さんと目が合って何となく会釈のような微妙なジェスチャーになる。いつもならそのまま食券を買う列に入るのだが状況が状況なので致し方ない。事が落ち着いたら必ず食べに行こう。
何不自由なく生活してきた。僕が不自由だと思っていた悩みはただの贅沢だった。嬉しいとか悲しいとか、そんな感情は生きているからこそのもの。たくさんの希望も、生きているからこそ背負える。僕の気付かないうちに誰かが死んで、同時に新しい命が誕生している。望んでか望まずか生まれ落ちて、十分か不十分ながら命を落としていく。
幸せは遠くにあって特別なことだという意識を捨て、日々のささいな出来事をありがたいと思えたのなら、僕は既に幸せを手にしている。