「劇場」、その幕が降りても

 沙希と永田はずっと一緒にいて幸せになってほしい。たわいのないことで冗談を言ったり不慣れな関西弁を使って永田の口真似をしたりして、沙希にはずっと腹を抱えて笑っていてほしい。どうしようもない自分を抱えながら不器用なりに、永田には彼女の隣で安心していてほしい。僕は恋愛の経験なんて人に誇れるほどのものはないけど、優しさというのを勘違いして自分勝手に振る舞っていた永田の姿が、どうも他人事として映らない。物語の最初に一度上がった幕は、最後は降ろされなければならない。もしその続きがあったとしても。

 又吉直樹の小説「劇場」。劇作家の主人公・永田と女優を目指して上京している沙希の『切なくも胸にせまる恋愛小説』と本の帯には書かれている。これは本当に恋愛小説だろうか。恋愛小説としての要素は確かにあるとは思うけど、恋愛だけでなく実際に生きている人間の本性にも焦点を当てているように感じる。男女の恋愛がイメージしやすいというのはあるだろうが、男女の仲以外でも永田と沙希のように人間らしく互いを必要としたり傷付けあったりして僕らは生きている。

 お世辞にも印象が良かったとは言えない形で2人は蒸し暑い夏に出会う。出会ったというと、何かロマンチックな出来事を想像しがちだが、彼らの場合はそこに偶然居合わせたといったほうが的確かもしれない。その後紆余曲折がありながら2人は下北沢で同棲することになる。沙希という天真爛漫な女性と一緒にいることで、永田は彼女にあって自分に欠けているものを嫌でも意識せざるを得なくなる。劇作家としての活動が思うように軌道に乗らない焦燥感も相まって、沙希の彼を思っての態度すら重く感じるようになる。

 沙希自身はそんな自己中心的とも言える永田を『天才』とか『才能』という言葉を使って必死に励まそうとしているように見える。永田が彼女の好意に甘える度に沙希は自分をすり減らして生きているようだった。そして永田はそのことに気付いているのか、それとも気付いていない振りをしているのか、創作に集中すると言って彼女の住む部屋から出ることにするのだった。

 恋愛経験は少ないと冒頭に言った。少ないなりに自分の中である時からこう思うようにしている。自分の事を嫌いな人間に、他の誰かを愛することはできないと。何がキッカケだったかは思い出せないけど、いつからか僕は誰かに好かれたいという気持ちを極力意識せずに、自分のことを胸を張って好きだと言えるように過ごそうと決めた。そのことと、恋人の有無の因果関係があるのかは断言できない。ただ誰かに向かって「僕は自分のこと好きじゃないけど、あなたにそんな僕を好きになってほしい」とは言えない。

 もしかしたら他の誰かが、好きではないと思っていた自分の何か長所のようなものを見つけてくれることがあるかもしれない。僕だって意識していないだけでそうかもしれない。沙希の存在によって、永田は自身のある意味だらしない部分も肯定されたような気持ちになっていたのかもしれない。だから周囲の人間から見ればどうしようもない人間であっても、自分は自分のままでいいと思って沙希の健気な態度に寄り掛かり過ぎたのかもしれない。

 2人が最終的にどんな結末を向かえるにせよ、それまでに起こった出来事や乗り越えた感情には全て意味があったと信じたい。頭の中で思い描いたことと、文字にしたり言葉にして口から発することの僅かなずれ。形はどうあれ一番大切なことは、素直になって会いたいと伝えることだったんだろう。

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