火花が散っても
それは真っ暗な地平線のどこかから勢いよく筒を飛び出し、夜空に向かって僅かにその軌跡を震わしながら火花を散らして昇っていく。皆が一斉にその立ち昇る光線を見上げた次の一瞬間が空いて、辺り一面の空を光の粒で形作られる輪が破裂音と共に照らし出す。音は空気の層にひび割れを作るように、波を立てて幾度も観衆の心臓を打つ。そのままじっと空を見上げていると、燃え切った後の花火の灰が顔に降りかかってきたような気がした。夜空は既に深い闇を取り戻しているのに、目蓋を閉じると光の残像がいつまでも残っていた。
世間の目を完全に無視して生きることはできないと声を荒げた。かつて漫才師の駆け出しだった頃、熱海の海で打ち上がった花火の音に自分達の声を掻き消され意気消沈で出番を終えた主人公。そんな彼が師匠として長い間憧れ続けた男を前にして涙ながらに訴えている。又吉直樹の小説「火花」に出てくるある場面だ。主人公・徳永は中学からの同級生と漫才師になる為コンビを組んでいる。そして熱海での地方営業中に出会った先輩芸人・神谷に惚れ込み自ら弟子となることを志願した。
神谷は弟子として徳永を受け入れることを快諾する代わりに、彼に自らの伝記を書くことを依頼した。常識離れした神谷の数々の行動に翻弄されながらも、徳永は彼の姿に自らの芸人としての理想像を見出しなぞろうと努める。しかし神谷と過ごす時間の充実感とは裏腹に、徳永のコンビとしての活動は特に目立った成果もなく、次第に神谷との関係にも変化が訪れる。憧れ続けた神谷の言動にも微かな綻びが見え隠れして、徳永は決して小さくはない矛盾を抱えながら日々を重ねていく。
あまりにも純粋に自身にとってのおもしろさを突き詰める結果、神谷という型に自分が絡みとられていると薄々勘付いていた徳永は、本音を神谷にぶつけることで師弟の芸人としての決定的な資質の差があることを厳しい言葉と共に吐露する。悩みもがき苦しみながら徳永と神谷はそれぞれの道を模索し続ける。
自分が思っていることを、誰にも気兼ねすることなく自由に言葉にできたらどんなにいいだろうと思う。自分の望みを誰に対しても後ろめたい気持ちにならず堂々と叶えられたら素晴らしいと思う。だが僕の住むこの世界では、僕ひとりだけが生きているわけじゃない。周りには生まれた場所や育った環境が違う人だらけだ。全く同じ境遇の人間を探すことはほぼ不可能だ。自分の価値観が正しいと信じることと、それを誰かに披露した時の感触とを、僕らは車の両輪のようにしてバランスを取りながら生きていくべきだろうか。徳永と神谷はその両輪のような存在であり、お互いに欠けているであろうものを彼らなりの形で求め合っていたんではなかろうか。「火花」を読んで今そう思う。
そしてそれは架空の物語としてではなく、時に避け難い他者との交わりによって形作られている実社会と、型にはまりきれない人間らしさを投影する。例えこの世でたったひとつと信じて疑わなかった道が終わったとしても、次の一歩を踏み出す限りそれが絶えることはない。