身体の中で滞るもの
よく散歩をする。家の近くを歩くだけだからサンダルを履いて出掛ける。外はまだ完全に春本番という天候でもない。急に寒くなったり厚手の上着で汗ばんだり目まぐるしい。5月になったらダウンの上着はしまおうと考えている。家で仕事をするようになってから、身体を動かす時間が確実に短くなった。具体的に何が失くなったかと言うと、電車に乗る時間と駅から職場まで歩く時間だ。動いている時には流れていたものが身体の中で滞っているようだ。
心臓はいつだって休みなく動き続けている。僕は直接その姿形を見たわけじゃないけど、少なくとも刻まれている鼓動は何かしらの方法で聞き取れる。ポンプが押し出した血液が流れているのも皮膚に触れれば分かる。それがいつか止まってしまうなんて当分思えないのだけど、でもそれも避け難い事実だ。休みなく働き続ける心臓と、それによって流されている血液。それとは別に気とでもいうべき目には見えないものが僕の身体を巡っている。
理屈でうまく説明できないのだが、ずっと座りっぱなしでいたり何の目的もなくテレビを見ていたりするとそれは滞る。身体の筋肉は柔軟性を欠いたゴムホースのようになってくる。関節は金具で固定されたように一瞬感じるけど流石にそこまで症状が重いわけではない。動かしたいと思えば簡単に動いてくれる。頭から下は確かに動いているのだけど、頭に霧がかかって少し空気が薄い感じがする。意識があまりクリアにならない。頭と身体が別々に動いて自分の身体ではないようにも感じる。
そんな時はやっぱり外に出て少し歩くと気持ちがいい。家に居てどれだけ換気をしても外で吸い込む空気には敵わない。窓を開けて入ってくる空気と外で吸う空気は基本的に同じはずではあるけれど、建物の中に居て囲われていない分だけ外では開放的になるからだろうか。自分の身体の寸法は変わらないのに、外に出ると身体が余計に伸びて普段より沢山酸素を取り込んだ気持ちになるのかもしれない。
散歩が特に気持ちよく感じるのは、雲のない晴れの日だ。でも汗っかきなので時期はきっと限られる。あっと言う間に夏が来て、Tシャツと短パンでも暑苦しい季節になってしまう。シャツの上にパーカーを羽織ってちょうどいいくらいの今が一番気持ちいい。暑くも寒くもないから身も心も軽い。穏やかな気持ちでいられるし物事を冷静に考えられる。そして些細なことにもありがたみを感じられる。ひとりの人間として、自分がとても自然体でいることに気付く。
滞っている間にも、時間は進み続ける。心臓は動き続ける。歩く速さは違えど、時間は誰にも平等に与えられる。留まっているものなどひとつもないのかもしれない。人の気持ちも少しずつ移り変わっていく。悲しい別れがいつしか美しい思い出になるように。時間に置いてきぼりにされないように、絶えることなく動き続ける。