いつも毅然として

 自分と全く同じ人間はいない。30年と少ししか生きていないが、何となくそんな気がしている。世界中を旅して、自分と瓜二つで中身まで同じ人がいるかを探して回ったわけじゃない。でも確信に近いものはある。自分に備わっていない資質や特技のようなものを手に入れたいという欲望は昔ほど強くはない。他の人間にはないものを僕は持っていて、同時にそれは誰もが持っているけれど簡単に受け入れることができるわけではないものだ。

 生まれた時には人間の形は大体決まっている。この目、口、鼻、顔、身体を形作る設計図は両親から選別されて受け継ぐことになる。少なくとも今のところは、どれだけ強く望んでも自分以外の誰かとその設計図を交換することは不可能だ。今のところ僕自身は他の誰かの容姿になりたいといった願望はない。昔は少しはあったかもしれないけど、今はそんな気持ちは失せてしまった。それは決して後ろめたい態度ではない。むしろ前向きことだと思っている。

 この世界に自分ひとりで生きているとしたら、どんな見た目だったとしても全く気にしないかもしれない。現実は中々そうはいかない。どうしても避け難く他人と関わり合いにならずにはいられない。第一に親がいなければ存在すらできない。お腹から出てきた後は、祖父母や兄弟姉妹もいるかもしれないし、小学校と中学校は義務教育だから先生やクラスメイトとも同じ空間で過ごすことになるだろう。仮に学校に行かないという選択をしても、フリースクールや学童保育があれば他人との交わりは必然だ。

 自分と他人を比べて一喜一憂する必要など全くないはずなのに、僕は時々どうしようもなく彼らの視線や考えが気になってしまう。中には自分のことは棚に上げて他人の揚げ足ばかり取ろうとする人間もいる。僕だってそうして今まで誰かを傷付けたことがあったと思う。完璧な人間などいないのだから間違いは犯す。自らすすんで誰かを傷付けることはしなくていい。知らずにそうなってしまうことはあるかもしれないが。

 不快に思うことをされたり言われたりしたら、その相手に負の感情を抱くのは人間として自然なことだと思う。見返したいと思う。もしかしたら自分が傷付けられたのと同じ思いを味わってほしいと思うかもしれない。僕は相手を見返したいと思っても、具体的な行動に移せなかった。何を言われても毅然としていればよかったかもしれない。間違ったことはしていないと胸を張っていればよかったと思う。僕は彼らの言葉を前にして黙っていたことで、理不尽な態度を結果的に受け入れ自分を損なったかもしれない。

 今はもう自分のことを被害者だなんて思わない。そんな出来事はないに越したことはないけれど、それがなければ今の自分はないと断言できる。思い出すだけでも不快になっていたはずの人達も、今となってはある意味彼らに出会うことがなければ今の境遇には辿り着けなかったと思う。今、僕がそんな風に思えているのはとても幸せで貴重なことだと感じている。

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