100日でも、何日でも生きる

 幸せは、非日常な場所や機会を探して得られるものではないかもしれない。人が今まで幸せだと思っていたのはただの贅沢で、その影に隠れるように日々の生活に起こっていた些細な出来事が、本当の幸せだと思う。贅沢な生き方というのは、1日の終わりに布団に入って「今日も1日後悔なく生き切った」と思えること。そして次の日の朝に目覚めた時、今日もまた1日生きる機会を得たと実感することだと思う。

 漫画家かつイラストレーターであるきくちゆうきさんの「100日後に死ぬワニ」を読んだ。数日前から、ニュースやバラエティ番組で何度か特集されているのを目にした。その時点で既に100話のうちのほとんどがツイッターに掲載されていたが、僕は全くノーマークだったのでテレビで情報を得るまで知らなかった。生きることや死ぬことについて時々このブログで書いているし、個人的に興味が湧いたので最初から読み返してみた。

 ワニくんは死ぬことが決まっているものの、最後にどうやって命を落とすかは直接描かれていない。彼の日常生活も、現実世界では起こらなさそうな出来事はない。読者にとっても、同じようなことを日々の生活の中で経験しているだろう。そして一番大きな、ワニくんと読者の共通点は、自分がいつ死ぬかを知らずに生きているということだろう。

 僕自身、100日後に生きているかと問われたら、生きていると答える。そんなすぐには死なないと思いたいし、死ねない理由も僕なりにある。しかし誰かが、仮に人間の寿命があらかじめ決まっているとして、それを管理しているものがいたとする。その誰かに、あと何日で自分が死ぬかを教えられたら、途端に日常の景色は一変するはずだ。生まれてから何日目の朝かなんて数えたことはなかったし、そのうち最後の夜が必ずやってくる。

 もしかしたら最後の日に、布団に入ったきり逝ってしまうわけではないかもしれない。そして今かいまかとその時を待ちながら過ごすことになる。前日までは意識していなかったのに、当日になって急に怖くなってくるかもしれない。怖がっても、怖がらなくても、死はいつか確実にやってくる。避けられないのなら、人間に出来るのは「死」の捉え方を変えることだと思う。変えるまではいかないまでも、改めて考えることはできる。何気ない日常の過ごし方を通して、「死」と向き合うことで。

 当たり前だと思っていること。無意識にやってきたこと。生まれた時に祝福してくれた人達が、少しずついなくなって、いつの間にか自分が祝福する側になっていること。ひとつひとつ数えたらきりがないけど、僕の周りには「日常」という特別な時間が溢れている。そのことに気付けたなら、どんな1日だって「今日が今までで最高の日だった」と言えるのかもしれない。そしてそれが「死」への恐怖に立ち向かう力になると信じている。

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