繋いだ手はもうほどかない

 ふたりはまだ気付いていない。何の前触れもなく出会うことを。これからも自分ひとりで生きていくと思っていた。何気ない会話を交わす中で、少しずつ相手を知りたいと思う。口下手だったはずなのに、彼女を前にして驚くほどしゃべっている。静かに相槌を打ちながら、話に耳を傾けてくれている。何を話したのかほとんど覚えていない。今度会ったら、もう少し落ち着いて話せるだろうか。僕はまたあの笑顔を見たいと思った。

 声をかけていきなり誘った。前と同じ居酒屋。同じメニューを注文して、話題はこの前の続き。なのにその人は笑ってくれる。ふと、この人がいつもそばにいてくれたらと思う。そばにいてくれたら、きっと自分は飾らず自分らしくいられるのに。でも多くは望まないでおこう。今はこうして、ふたりで共有している時間を目一杯楽しもう。

 その日は仕事は互いに休み。渋谷のハチ公前で待ち合わせた。待ち合わせ場所としては定番すぎたかもしれない。でも周りにはたくさんのカップルらしき男女や、誰かを待っているであろう人達がたくさんいる。僕ひとりがそこで誰かを待っていたところで、誰も気にしないだろう。彼女を待ちながらずっとそわそわしていても、誰もそんなことには気づかない。よくある渋谷ハチ公前周辺の光景だ。

 彼女はスカートをはいて現れた。ほぼ時間通り。もう少し遅れて来てくれてもよかったのに。開口一番に何をしゃべろうか考えていたから。緊張が少しでもほぐれるように。リハーサルだってしていない。じっとこっちを向いて待ち構えていたわけじゃない。会って最初に何と言ったんだろう。落ち着かなきゃいけないと自分に言い聞かせながら、カラオケに向かって歩き始めた。

 得意なカラオケでちょっといいところでも見せようか。下心満載で部屋に入った。彼女は歌わないというから、ひとりで歌い続けることになるのでドリンクバーのお茶を注いだ。彼女は確かコーヒーだったかな。僕はコーヒーは飲まない。小学生の時、朝食で飲んでいたのはコーヒー牛乳。なぜその時は飲めていたのかよくわからないけど、今は全然飲まない。不味いとは思わないが、ただ好みではないだけ。カラオケの1曲目は決まって猿岩石の「白い雲のように」。次が藤井フミヤの「TRUE LOVE」。2時間歌いっぱなしで汗をかいてしまった。彼女はとても楽しんでくれたみたいだ。たくさん笑顔を見せた。そうだ、僕はこれからもその笑顔をずっと見ていたい。できれば恋人として。できれば死ぬまで。そして僕は彼女と結婚した。

 子どもの頃は、まさか父が母と、そして母が父と一緒にいたくないと思うことなんてないと思っていた。親なのだからそんなことあるはずがないと。でも、親だって人間だ。子どもと同じ人間なんだ。気持ちがすれ違ったり、いつも正しい選択ができるとは限らない。そんなことは起こらないに越したことはないのだが。

 僕の決断は正しかったと信じている。あの時、理屈では説明できない何かが僕を捉えた。自分でも予期していないほどの行動力を発揮した。ふたりはもう偶然だったとは思わない。これからもずっとそばで、その笑顔を見届けよう。

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