「ありがとう」を伝える尊さ

 人と人が関わり合う中で、一番尊く美しい瞬間はいつか?この問いに対する僕の答えは、「ありがとう」を伝える時だ。母親のお腹から生まれ落ちて、家族に囲まれ育ち、いつしか守られる側から、守る側に移り変わる。その過程の中で、数え切れないほどの喜怒哀楽を積み重ねていく。自分が本当に大切にしたいと思える人達に、心の底からの感謝を何度形にして伝えてこれただろう。

 今朝起きて、YouTubeを観ていた。芸人のカジサックさんが、第五子の誕生を報告するという内容だった。4人兄弟の一番上になる自分も、5人いたらとても賑やかで楽しそうだと思う。人数が多い分、両親は大変だろうが、それ以上の喜びには変えられないはずだ。

 僕は自分のことを涙もろいと思っていなかったが、最近はよく泣くようになった。子どもを授かってからは、特にその傾向が強くなった気がする。テレビ番組で、家族でも親戚でもない家で暮らしを共にしながら、その地域の暮らしを体験した後、元の生活に戻っていく。お世話になった方々との別れの場面で感極まってしまった。また、大家族で育った子どもが成人したことを機に家を出ることになった時に、これまでの感謝の気持ちを伝える場面でうるっとしてしまう。

 カジサックさんが、生まれたばかりの我が子を抱いている。5人目なのに、まるで初めての赤ちゃんを抱くような眼差しを向けている。お母さんから出てきた5人目の子どもであっても、赤ちゃんからすれば初めて外の世界と繋がったわけだ。

 子ども達が赤ちゃんを囲んでいる。「生まれてきてくれてありがとう」と赤ちゃんを起こさないように囁くように言う。そうだよな、五体満足で健康に生まれてくることは決して当たり前なんかじゃないんだよな、と改めて気付く。自分自身がこうして毎日ブログを書いたり、筋トレして身体を動かせるのも、実は奇跡に近いことなんだ。だから伝えられる時には、ちゃんと感謝の気持ちを形にしたほうがいいと思った。

 人間同士、全員が血の繋がった家族であるはずもない。だから僕も含めて好き嫌いは当然ある。それを形にして伝えることは必ずしもいい結果を生むとは限らないから、ややこしくなったりする。それでも時々ふと、嫌いだったあの人も実は出会ってなければ今の自分のささやかな幸せはなかったかもしれない、と思うことがある。本人を目の前にして直接「出会ってくれてありがとう」なんて言えそうにはないけど、これからも時々は思い出すかもしれない。

 「生まれてきてくれてありがとう」と言われて誕生し、お世話になった誰かが亡くなった時にも「ありがとう」と言う。これから生まれる人間と、今生きている人間と、亡くなった人間達の目に見えない繋がりを紡いでいくという思いが「ありがとう」にはたくさん詰まっているような気がする。人々のその思いが尊く、美しいものなんだ。

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