「鉄道員(ぽっぽや)」、健さんにはもう会えない

 初めて「鉄道員」を観たのはいつだろう。記憶にあるのは、映画を観て泣いたのが「アルマゲドン」に次いで2作目だったということ。厳しい寒さの冬に、北海道のローカル線の駅長が吹雪の中、背筋をまっすぐにして立って電車を待っている姿が瞼に焼きついている。

 2014年に亡くなった高倉健主演の「鉄道員(ぽっぽや)」。妻役には大竹しのぶ、若い頃の広末涼子も出演している。定年間近のローカル線の駅長、高倉健扮する佐藤乙松に訪れた優しい奇跡を描いた物語だ。「幌舞線」の終着駅の駅長を務める乙松は、これまで鉄道一筋で働いてきた。妻との長い結婚生活の後にようやく恵まれた我が子も、風邪が元で死なせてしまう。冷たくなった娘の亡骸を抱いた妻が乗った電車を迎える彼は、駅長としての役目に固執しているようにも見える。妻が病気になった時も、駅長として妻の乗った電車を見送った。妻がいよいよという時も、交代の手配ができずに死目には会えなかった。

 ある時、彼が駅のホームで雪掻きをしていると、小さな女の子が人形を抱えてやってくる。見知らぬその子どもに翻弄される内に、人形だけを置いて彼女は去っていく。そして夜になると、姉と名乗る少女が駅を訪れる。そしてまた人形を持って帰らないまま、少女は去って行ってしまうのだった。

 乙松が駅長になる前から、機関車に一緒に乗っていた友人がやってくる。彼も同様に定年が迫っており、乙松も一緒に定年後の職に付かないかと提案する。皆も心配していると諭すように説得を試みるが、乙松は断固として首を縦に振らない。「鉄道の他は何もできねぇ」と静かに言い放つ乙松に、それ以上かける言葉はないといった雰囲気だ。

 これ以上のストーリーの詳細はあえて省く。ぜひ映画を直接観て頂きたい。だがもうひとつだけ、僕がとても印象に残っている場面を紹介しておきたい。乙松がその日の電車を全て送り出した後、駅舎に戻ると出来立ての暖かい鍋を振る舞われた。茶碗に装った鍋をすすりながら、乙松は感極まってしまう。自分はこれまで好き勝手やってきて、子どもと妻を死なせたのに、周りの皆がとてもよくしてくれると涙ながらに呟く。自分はとても幸せものだと。そして物語は結末へ向かう。

 自分が決めたことを、最後まで貫き通すことは難しい。なぜなら、多くの場合、途中で諦めたくなる時が来るからだ。少なくとも僕の場合は、挫折しそうになる気持ちを払い除ける為に力を使わないとならない時がある。そして、物事を最後まで貫き通す過程で、それ以外のことに時間を割けなくなり非難を浴びることがあるかもしれない。大切な人の死目に会えないとなったら、人に寄っては非常識だと思われるだろう。

 どれだけ多くを望んでも、全てを手にすることはできない。どれだけ失いたくないと思っても、全てを守ることはできない。人間にできるのは、何を大切にして生きていくかを自分自身で決めること。乙松さんの生き方が正しいかどうかではなく、僕は彼をとても尊く気高いと思う。僕自身も、後悔なく尊く気高い人生を望んでいる。

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