椅子が折れる時
赤い椅子が置いてある。置いてあるのはその椅子だけではない。黄色い椅子もあるし、手作りらしい木製のテーブルも置いてある。赤色はオレンジ色の次に僕が好きな色だ。僕はその小ぶりな赤い椅子に腰掛けようとする。座面は明らかに僕の尻よりも小さく、ぴったりとそこに収まる予感は全くしなかった。太陽の光を長い時間浴びたらしく、椅子の樹脂の表面はざらついている。赤色と言ったが、色褪せていて白っぽくなっている箇所もある。僕はゆっくりと腰を降ろして座面に尻を付けた。そしてそのまま体重をゆっくりと掛けて、僕の背中の半分にも達しない背もたれに寄り掛かった。オフィスで使う椅子のように、もたれた背中がそのまま後ろに倒れそうになる。もたれ続けていたら、きっと僕は後ろに転がっていたかもしれない。
背もたれが付いていたと思った自分が間違っていたかもしれない。倒れそうになる上半身を起こして、椅子から立ち上がり振り返った。赤い椅子を見ると、座面と背もたれを繋ぐ部分が曲がっていて白くなっている。最初から大人が座る為の椅子ではなかったんだろう。完全に折れてはいないが、曲がった樹脂の部分が外側に曲がって飛び出している。僕が座る前から実は曲がっていたとは考えられないか。仮に曲がりやすくなっていたと考える。その場所で僕以外の大人がその小さな椅子に座っている場面を見た記憶がない。毎回近くを通る度にどんな人がその椅子に座っているかを覚えているわけではないから、忘れただけかもしれない。
キャンプ用の椅子も置いてある。僕の実家にもいくつかあった。頻繁にキャンプに出かけていたわけではないけど、夏の花火やBBQの時には重宝していた。初めて一人暮らしをした時に部屋に置いたのも、キャンプ用の椅子だった。網目状のドリンクホルダーが付いているのがいい。家の中で使うことは頻度で言えば多くないだろう。主に屋外で使うことになると思うが、椅子に座って食事をする機会が多い。しかも寒い冬ではなく、外でも過ごしやすい春から秋に使うことになるはずだ。座面と背もたれが明確に分かれていないというのが個人的なイメージだが、座れば椅子全体で身体を支えられている感覚になる。ハンモックとまではいかないが、何となくそれに近いような心地になっている。
小学校に通い出して高校を卒業するまで、ずっと同じ椅子に座って授業を受けていた気がする。厳密に言えば同じ椅子を12年間使い続けることはあり得ないのだけど、それぞれの学校で使っていた椅子に明確な違いはなかったと思う。質素な鉄のフレームに、合板で作られたであろう座面と背もたれが備わっている。快適とは言えない固い板の上に身体を乗せて長い時間を過ごした。退屈だと思える時間もあったし、時間が過ぎるのが早いと感じる程聞き入ったこともあった。退屈だと思っていたのは実は僕だけで、僕以外の誰かにとってはとても充実した時間だった可能性は大いにある。何に興味を持つかというのは人それぞれだ。退屈だという感覚を、他の誰かと完全には共有できないと思っている。そして今だから言えることだけど、退屈だと思っていた時間の中にも学びは大なり小なり隠れていたかもしれない。結果的に無駄だったと思うかもしれないが、可能性はあるかもしれないと思って話を聞くことはもっとできたはずだ。
東京には緑が少ないと思っている人がいる。自然の中でこそ豊かな心が育つと言う人もいる。本当にそうだろうか。心の豊かさというのは住んでいる場所によって決まってしまうのだろうか。そうではないというのが僕の考えで、それが東京に住み続けようと思う一つの理由になっている。心豊かな人は場所を選ばない。僕はそう感じている。子ども達の走り回る声は東京でも聞こえる。彼らの姿を目にすることもできる。完璧な街などない。今日も誰かが赤い椅子に座っている。