自分の名前

 最初に命名書を壁に貼り付けたのは、息子が寝ている場所のすぐ近くの壁だった。生まれた病院を退院した後しばらくは、起きている時間も短かったし、壁に何かが貼ってあることも本人は分からなかったと思う。でも目が見えるようになってくると、手が届きそうな物には腕を伸ばすようになる。子どもに触って欲しくない物かどうかは、息子には関係無くなる。触って危険な物や、壊してしまいそうな物を除けば、極力制止しないようにはしている。それでもはらはらする場面はこれまで少なくなかった。息子の手が命名書に届くようになると、貼っている位置を少し高くした。それでも手が届くようになった時、今度は寝ている布団から遠ざけることにした。そして今その命名書は、テレビの後ろの壁に飾っている。

 仰向けになって腕を精一杯伸ばすだけだった息子は、今や目的地を探して自ら移動出来るまでになっている。そして途中で多少の障害物があろうとも、片脚を持ち上げて乗り越えようと必死になっている。腰くらいまでの高さなら登れるようにもなった。僕がキーボードを叩いているのを発見すると、あっと言う間に近付いてくる。そして膝に手を置いて身を乗り出してくる。息子の太腿が持ち上がり、腕が僕の手元まで伸びてくるのだ。パソコンと繋がっているマウスのケーブルが気になっているようだ。人差し指で突いて感触を確かめている。僕にとっては使い慣れた物であっても、彼にとっては珍しい物なのかもしれない。毎日目にしているはずなのに、毎回まるで初めてそれを見るような眼差しを向けている。

 NHKの番組がテレビから流れ始めると、部屋のどこにいたとしても大抵は気付いて振り向く。四つん這いになって前進し始める。テレビはすぐ近くで観て欲しくないと思っているけど、その思いをよそに画面を手のひらで叩いている。脇を抱えて彼をテレビから遠ざけて、プラスチック製のボックスに手を付かせて見せるようにする。でも完全に動線を防ぐことはできないし、迂回することを覚え出したから、すぐに尻餅を突いてはいはいでテレビに再度近付く。僕は懲りずにまた彼をテレビから引き離す。息子もまた懲りずにテレビに向かって前進を繰り返す。何度かそれを繰り返した後に、画面に顔を擦り付けるようにしている息子を横目に電源ボタンを押した。先程まで映像と音声が流れていたテレビは沈黙し、黒以外は何も映らなくなった。

 テレビが静かになっても、息子は中々そこから動こうとしない。彼はテレビ画面ではなくて壁の方に視線を向けていた。その壁には彼自身の名前が書かれた命名書が貼り付けてある。テレビではなくて、その向こうの壁に貼られた命名書に腕を伸ばしている。自分の名前がそこに書かれていると分かっているのだろうか。もしかしたら名前の上の「命名」という文字が、金色で加工されているのが気になっているのかもしれない。命名書の端には何とか指先が届くが、それ以上は今は無理みたいだ。テレビを移動させれば触れるはずだが、掴んで剥がしてしまうかもしれない。部屋に置いてある絵本のページを掴んで折り目を付けるくらいだから、絵本より薄い紙に書かれた命名書なら簡単に破れてしまうだろう。僕の父、息子にとっての祖父が気合を入れて書いてくれたから、大切にして欲しいと思っている。

 僕は自分の名前をとても気に入っている。息子の名前は、彼が生まれる前から真剣に考えていたけど、父も同じように考え抜いた末に命名してくれたと思いたい。名前にはどう育って欲しいかという親の願いを込める人もいるけど、どんな人間になりたいかを決めるのは子ども自身だと僕は思う。もちろん子どもが親の思った通りに生きるように仕向けるつもりで名前を考える人はいないと思うが、名前に使われている字やそれらが持っている意味と実際の生き方を照らし合わせた時に、両者が全く同じとは言い切れないことがある。親の願いはあくまでも親の願いとして割り切り、本人が望む生き方をすればいい。だから僕は願いというよりも、思い浮かんだ情景を文字にして息子の名前にした。

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