這って、土管を

 空の青が見えるほど晴れているのに、鼠色のその土管の内側はひんやりと冷たい。僕が四つん這いになると背中が当たってしまうほどの直径だ。厳密には土管の中で僕は四つん這いにはなれない。近くで見ているとそんなに狭そうには感じないのに、いざ潜ってみると思いのほか通り抜けるのは簡単ではなかった。奈良県は東大寺の大仏殿にある柱の穴に比べたら、途中で身体がつっかえるような狭さではないが、快適にその中を移動できるとは言えない。当然と言えば当然なのかもしれない。大人達がその土管の中で楽しんでいる姿を目にしたことはほとんどない。どちらかと言えば土管で楽しんでいる子ども達を見守っている大人ばかりだ。大人も一緒に土管に潜って遊ぶべきだと言いたいのではない。ただその光景を思い浮かべた時に、狭さに顔を歪ませる人が多そうだと思っただけだ。

 太陽の光を遮る物が何もないから、日光が当たっている土管の表面はとても暖かい。乾燥機で乾かし終えたばかりの柔らかいタオルに身体を預けた時のような感触に近い。それは手のひらを置いただけでも充分感じられる。対照的に内側は冷たい。その冷たいコンクリートの筒の中を、息子は笑いながらこちらに向かって移動している。時折止まって後ろを振り返って何かを確認しているようだ。でも名前を呼ぶとすぐに振り向いて再度前進し始める。きゃっきゃっという声が反響しながら近付いてくる。自分の声が響いていることには気付いていないかもしれない。土管の周りには他の子ども達もいて、走り回ったり中を覗き込んでいる子どももいる。息子の月齢と大差ないであろう男の子が大きな声を出しながら、しゃがんで穴から顔を出していた。

 僕に背中を向けて座り込んだと思った息子の、泣き声が聞こえたのはその直後だった。どうやら他の子どもが出した声が反響したことに驚いたらしい。息子本人の声も随分響いていたとは思うが、自分の声だから分からないのかもしれない。土管のちょうど真ん中辺りで泣いていたから、僕は上半身を伸ばして彼を近くまで来るように誘導した。大粒の涙が頬を伝っているのがはっきりと分かった。顔面をくしゃくしゃにしながら冷たいコンクリートの筒の中を、一歩ずつ這ってこちらに進んで来ている。すぐにでも抱き締めたかったけど、すんなりとその中に僕の身体が収まる程の穴ではない。手の平をぺたぺたと叩くようにして、やっとのことで僕の腕が掴まえられる所までやって来た。

 土管の外に出た息子が泣き止むのを待って、再度彼を土管の中に座らせる。座ったのとは反対側に回り込んで顔を出し、息子の名前を何度か呼んだ。さっきまで僕がいた方向をきょろきょろと見ていたようだが、呼ばれてすぐにこちらを振り向いた。今度は口角を上げて、笑って顔をくしゃくしゃにしながら進み出した。僕が顔を引っ込めると彼はその場で座り込んでしまう。突然父親が消えてどこかへ行ってしまったと思っているのだろうか。そしてまた顔を出してを繰り返しながら、午前中の人の少ない時間をその広場で過ごしていた。30分くらい遊んだら荷物を持って家に帰る。暖かい日には裸足で芝生の上を歩かせるから、手洗いと一緒に足も洗っている。僕が両腕で彼を抱えて洗面台の前に立つ。蛇口からはぬるま湯が出るように温度調整して、妻が手と足を洗っている。

 僕が通っていた小学校にも大きな土管を跨ぐようにして作られた遊び場があった。細かい砂のような土が盛られた山のような場所だったが、校舎の建て替えによってその土管は姿を消してしまった。校舎が新しくなってからまだ一度も母校を訪ねたことがなかったので、今度実家に帰ったら出掛けてみようと思う。綺麗になったのは歓迎すべきことだと思う。でも僕は風で砂埃が舞ったり、雨が降れば土が泥々になったりして汚れながら遊んでいる方が楽しいだろうと思う。息子もそのうちに、白い上着を茶色く汚して帰ってくるのかもしれない。

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