ひとりの「人間」として
僕は、人間として拙い。十代の頃は、周りとうまく馴染めない自分にずっと不安を覚えていたし、二十代の時は無限の可能性があると信じていたかった。幼い子ども達を見る度に、僕にも彼らと同じように物事をまっすぐ見る目を養い、世界の本質を見出すことができるかもしれないと思った。そしてある時に気付く。自分の可能性をどれだけ強く信じているかを証明するには、行動し続けるしかないと。
腕立て伏せをして、滝のような汗をかきながら思う。なぜこんな苦しい思いをしてまで毎日身体を動かし続けるのだろうと。ランニングしているわけではないのに、心臓の鼓動は高まる。朝起きて、三食を腹八分食べて、排泄をして夜になったら布団に入る。そんな普通の人間的な不自由ない生活ができるにも関わらず、敢えて変化や刺激を求めて僕はトレーニングに励む。
さぼってしまう時もある。今どんなに鍛えたって、歳を取ったら徐々に筋肉は落ちていくだろうし、永遠に生き長らえて鍛え続けることはできないじゃないか、と後ろ向きになる。ただ、永遠に生きられなくても、明日死ぬことはないとは言い切れない。人生100年時代とは言うが、それは時代の傾向であって、100年生きられることを他の誰かが約束してくれるわけでは決してない。大抵の人はそのことに気付かないか、気付いても見て見ぬふりをしているかもしれない。
YouTubeを見ていたら、あるイギリスのロックバンドのボーカルがインタビューを受けていた。のどかな田舎の風景が背後に広がる中を、インタビュアーと共に歩きながら、次々と質問に答えていく。こんなことを言っていた。昔は皆、今のその瞬間を生きていた、と。スマホを皆使うようになったら、ライブでもスマホを構えている。「Living in the moment」ではなくなったと言う。直訳すると「今を生きる」か。
荷物を入れるロッカーに小さな黒板が貼り付けられている。そこには「You can change the past」と書かれていた。「過去は変えられる」と。本当にそうだろうか、と不思議に思った。思い出したくもない過去の出来事に囚われて、今本当に必要なことを疎かにしていないだろうか。過ぎ去った出来事に囚われるより、堂々とそれを受け入れ毅然と生きていくほうがいい。簡単にできることではないが、少なくとも僕はそう思っている。
ほんの少しだけ小説の話を。又吉直樹さんの書籍「人間」。拙い人間の表も裏も書いて、読んでいるうちに目を背けたくなるけれど、それを受け入れた先に、今の自分を肯定され優しく背中を押されるような心地になる。