咲く春を見たい
ここ数日は今がまだ3月であることを忘れてしまうような暖かな陽気が続いている。平日は外であまりゆっくり桜を見る時間が取れない。陽が長くなったとは言っても、仕事が終わる頃には桜の色が分からないくらい辺りが暗くなっている。住居入口の階段には、散り始めた桜の花弁がへばり付いていた。もう散ってしまうのかと思いながら、散り終わるまでに何としてでも枝の先で咲いている桜を今年は見たいと思っていた。短いような長いような平日の5日間が過ぎて、布団に入る時間が他の4日間よりも少し早い夜がやって来た。次に目覚めるまではいつもよりも穏やかに過ごせると思うのだけど、カーテンの生地の小さな隙間から朝陽が漏れ出す頃には、慌ただしい1日が始まるんだなと身体を起こして布団を片付けている。
狭い玄関の壁に寄り掛かっているベビーカーの紐を肩に担いだ。息子を抱きかかえるのに比べたら苦にはならない。折り畳まれたそれをすぐに展開して、押しながら移動することになるから、息子がまだ座ってもいない内からは音を上げられない。実際には音を上げるほどの重さではないのだけど。ベビーカーの操作は間違っていないのに、中々広げられないこともある。フレームは太いとは言えないが、増え続ける息子の体重を去年から支え続けてくれている。玄関と部屋を何度か行ったり来たりしながら、息子をベビーカーに座らせてベルトを装着させた。頭の後ろにはタオルを適当に何度か折った物を敷いておく。座面の左右にかなりスペースが余っていたのに、今は去年ほどは余裕があるように見えない。そんな小さな変化からも、息子の確かな成長を感じている。
万が一の荷物をベビーカーに取り付けたフックに掛ける。アスファルトの舗装が綺麗でないか、経年劣化で表面が滑らかではなくなったその上を、ベビーカーを細かく振動させながら押し続けた。下北沢駅を越えて更に歩き続ける。高い建物は駅の周りだけで、駅から離れれば同じような高さの建物になっていく。太陽が頭の上から照っているから、上着を着ていると不愉快に感じる。道中に日陰も少なく、息子はベビーカーに取り付けられた日除けの布を掴んで引っ張っている。陽射しが顔を照らすと仏頂面をしながら、両唇を前に突き出して息を吹き出している。眩しいからか、身体に掛けた布を手繰り寄せてその影に顔を隠したりもする。そんな息子の様子を見ながら、何度も通った道を歩いて北沢川まで歩き続けた。
予想はしていた。桜見たさに人がたくさん集まっているだろうと。桜が咲く姿を見逃したくないと思っている人は、もちろん僕だけではない。1年中花を付け続けるわけではないから、散ってしまう前に見ることが出来なければ来年までお預けだ。桜が咲いていなくても北沢川まで歩くことは時々あるけど、今日の人出は桜が呼んだということで間違いないんじゃないかと思える。緩やかな川の流れの両脇に桜の木が何本も植えられている。枝の先はそれほど高くない。全ての枝に手が届くことはないが、首の後ろが窮屈に感じるほど見上げる必要はない。満開に近かったけど、風に揺られながら絶えず花弁が踊りながら地面に落ちていく。まさしく今日は見頃だったと思う。そしておそらくこの後数日の間に花は次々と散り始めて、枝の先は薄い桃色から鮮やかな緑色に変わっていくだろう。
盛大に咲き誇っている姿を嫌いだとは言わない。でも僕は、散っている桜を眺めている方が好きだ。咲いている花があるのと同時に、同じ幹から生えた枝の先から散っている花もある。ここで咲いているよと誰かに伝えているようであり、いつまでもここで咲いているわけではないよと言っているようでもある。もし桜の花が散ることなく、ずっと花が咲き続けるとしたら、僕はそれでも桜を見たいと思うだろうか。いつも咲いているということは、いつでも見れて不自由ないのかもしれない。見頃はいつだろうかとか、天気は良いかとか、寒くないかと気を揉む必要もないかもしれない。でも生きるということは、否応なく死へと向かう旅路である。途中で起こるのは全て想定内のことばかりではない。何が起こるのかは分からないが、終わりがあるということだけははっきりしている。散っていく花弁を見ていると、自分がこの先生きられる時間にも限りがあるということを考えずにはいられない。