片手を離して

 寝ている顔は、僕よりも妻に似ているのかもしれない。起きている時の顔は、僕に似ていると妻は何度も言っている。自分の顔が他の誰かからどんな風に見えているかを正直に聞くことはほとんどない。顔だけではない。自分の口から出た声を自分の耳で聴くのと、それを相手が聞くのとではまるで聞こえ方が違うようだ。初めて自分の声を録音して聞いた時は、想像していた声と違って少し戸惑ったのを覚えている。自分の声だと思っていたものが、実は他の誰かから借りてきたんじゃないかと思うほどだった。それはこんな風な声だったらいいと期待していたのに、予想が完全に外れてしまった時の感覚だ。僕の声は、実家にあるビデオカメラの映像から聞こえてくる父の声だった。僕の息子に話しかける声が、とてもよく似ている。

 息子は機嫌がいいと、僕の膝に手を付いて立ち上がろうとする。そしてお尻が浮いて中腰になると、付いていた手を片方だけ離してバランスを取ろうとする。不安定ながらその状態を数秒維持できている。上半身は垂直に近いくらいまで起こせるようになった。どこにも掴まらずに立つことはまだできていないが、それも時間の問題だと思っている。あれだけ出ないと悩んでいた便通もかなり改善して、既に1週間以上連続で出ているし、1日に複数回それでおむつを交換することも増えた。目には見えないところで、着々と成長している証だろう。不安に思っていたことが解消されるのと同時に、また新たな心配事が現れる。彼が僕の息子である限り、何歳になろうがそれは変わらないと思う。それを言葉に出すか出さないかの違いなんだろう。

 床に敷き詰めてあるウレタンマットを剥がそうとする。隣同士繋がっているから、1枚まるごとは持ち上げられない。でもマットの辺を直線にする細長いパーツだけを引っ張って取ってしまう。細くて長い物が好きらしい。手に持ったそれを掴んだまま腕を勢いよく振って遊んでいる。DIYで使うビニール紐や、プラスチック製の鎖も好きだ。じゃらじゃらと音がする物も気になるようだ。何にでも興味を持つ、というのは全く大袈裟な表現ではないほどの強い好奇心だ。僕も幼い頃は彼と同じように、強烈な好奇心に突き動かされていたと思う。好奇心という言葉の意味を知らないままで、言葉の意味を体現している。あらゆる物事への関心はいつしかその範囲を狭めていき、時間を掛けて習熟する機会を自ら選んで生きるようになった。

 万物を知り尽くすには、僕が生きられる時間はあまりにも短い。選択の結果、ある分野に他の誰よりも精通していると言われる人々でさえ、その探究心が消えることはないのかもしれない。ある謎が解決したと思ったら、また新たな謎が現れる。1つの不安を払拭できたと思っていたら、また今度は別の不安が押し寄せてくる。他者と関わりを持つ中で、思ってもみなかった知られざる自分の新たな一面を垣間見ることもある。知らないことがあるということ、もしくは知りたいと思うことが幼い息子の生きる原動力になっているんだと、毎日近くで過ごして感じている。そして僕は既に大人になってはいるけど、なぜ毎日生き続けているかと言えば、紛れもなく好奇心だ。

 理想の自分を思い描いて、その自分に出会いたいと思う。この身体と心は2人分には分けられないから、出会うと言うよりも発見するという言い方が近いかもしれない。理想の自分はどこか遠い場所からやって来るのではなくて、既に自分自身の中で眠っている。でも彼が眠っている場所は、現状の自分がいる場所の外側だ。輪郭を押し広げながら、眠っているその場所まで囲ってしまう。そしてそこで眠っていたのは、今まで知らなかった自分自身だったと気付く。困難を乗り越えたり、新しいことを知った時はそんな感覚でいる。深層部はどこまでも深い方がいい。好奇心の海は地平線を越えて、遥か彼方まで広がっている。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

未分類

前の記事

愛さえあれば
未分類

次の記事

咲く春を見たい