父を追って
僕のことを父親として明確に認識している証拠と言っていいのだろうか。息子と妻と3人で一緒に過ごし始めてから既に9ヶ月が過ぎている。僕の後を追うようにしてはいはいで近づいて来てくれるのは素直に嬉しい。トイレに行く時も、夕方浴槽を磨く為に風呂場に行く時も、目線が合えば彼は突然思い立ったように動き出す。トイレでも風呂場でも、そのまま待ち構えていたら躊躇することなく入って来る勢いだ。トイレや風呂場と言っても、今の自宅はどこからでも目に付くから大した距離ではない。それでも息子にとっては大移動らしく、声を上げながら迫って来るのだ。僕が小さかった時には、家事をする母の目を盗んで散髪に出かけた父の後を追って、1人で家を出て歩き出したそうだ。その時の両親の気持ちが少しは想像できるようになったと思う。
息子が風呂に入る前に、先に僕が入って身体を流して風呂に少し浸かっている。そして軽く温まったら息子を風呂場に招き入れる。最近は気温が上がってきたせいか、抱き上げた彼の手足は以前ほど冷たくはない。冬の時期だと冷たい手足が僕の腹に触れて驚くのだけど、しばらくそんなことにはならなそうだ。身体を洗ってシャワーで泡を流す。顔にお湯がかかるのはまだ嫌がるが、最初の頃のように大泣きすることは無くなった。平気ではなさそうだが、自分で顔の水滴を拭ったりすぐに泣き止むことが増えている。ガーゼで顔と髪の毛を拭いたら、息子を抱きかかえて湯船にゆっくりと沈み込む。お湯はすぐに浴槽の淵から流れ出して、床に置いてあった子ども用のボディソープのボトルを押し流すことになる。
元々使っていた湯温計が、風呂場での息子の唯一の遊び道具だったが、壊れてしまうと困るし安全ではないと思った。何かもっと安全で簡単に遊べる物はないかと考えた。そして100円ショップに行った時に、プラスチックの小さなじょうろを見つけた。色は黄色で全体が象の形をしている。大きな目のシールが貼られていて、鼻先はアーチを描いて上に向かって伸びていた。そしてその先に穴がいくつか開けられている。ちょうど背中の部分に大きな穴が空いていて、そこからお湯を注いで遊ぶことができるはずだ。お湯に浮いていそうなのはあひるの人形というイメージがあるが、それだとただ触って見るだけになると思った。その点じょうろなら自分で掴める形になっているし、溜めればお湯も出るので楽しめるはずだ。
息子の身体を洗っている間に、彼が眠くなって機嫌が悪くなり泣き出すことも時々ある。そんな時でも黄色い像を見せるとすぐに泣き止む。そして頬に涙を伝わせたまま、鼻の真ん中辺りをがしっと掴んでいる。僕がお湯で中を一杯にしてシャワーのようにして見せても、それを彼が自分で再現することはまだできない。でもできないなりに流れ出るいくつもの水の流れをじっと見つめている。そして流れに向かってゆっくりと手を伸ばして感触を確かめているようだ。いずれにしろ黄色い象は気に入ってくれているようだ。熱めのお湯にはいつまでも浸かることはできない。元々暖かい身体は更にほかほかしている。タオルで全身と髪の毛を拭いたら、それで身体を覆って風呂場を出た。息子を妻に預けたら風呂の栓を抜いて、再度シャワーを浴びる。
小さなワイパーで窓、壁そして床の水分を払ってから僕も風呂場から部屋に出た。スマホを見ると動画が1本送られていた。再生すると、それはさっき僕がシャワーを浴びている時の息子の様子が撮られた物だった。風呂場の入り口の扉はすりガラス状になっている。部屋側から見ると、大きな僕のシルエットがガラス越しに動いて見える。ガラスの枠一杯にそれが見えているから、息子からすると巨人に見えるかもしれない。僕がそこにいるということは分かっているはずだ。妻が名前を呼ばなければ、ずっとそこに座って風呂場を眺め続けていそうな様子だった。彼はそうやって僕のことをいつまで追い続けることになるんだろう。