四つ葉の白詰草
もしかしたら僕だけかもしれない。何のことかというと、白詰草と言われた時にクローバーという言葉が別名として出てこないことだ。白詰草もクローバーも説明されればどんな植物かは想像できるし、実際に見たことも手に取ってみたことも何度かある。一番最初にそれを見たのは、僕の記憶が正しければ小学生の時だ。学校の校庭を囲むようにして生えていた。他の雑草と一緒に濃い緑の絨毯のように地面を覆っていたのを覚えている。そのほぼ全てには葉が3つだけ付いていて、四つ葉のそれを当時見た記憶はない。飾りを作って頭に乗せて遊びたかったのではないが、白詰草の白い花をちぎって繋ぎ合わせ続けていた。単純にどこまで長くできるかを試してみたかっただけだった。家に持って帰って雨戸の下のコンクリートの上に置いていた花の鎖は、いつの間にか萎れてしまっていた。
咲いている花を見ることがあっても、それを摘み取って遊ぶことはしなくなった。花びらの根元の蜜を吸ったこともあったけど、ただ見て眺めているだけで満足するようになっていった。派手に彩られたものより、小さくても凛と佇んでいる植物が好きだ。そこに咲いているということを誰かに気付いて欲しいのではない。ただ花としての命を全うしようとしているだけの姿だ。そして美しいと自ら口にせずとも、内側から滲み出ずにはいられない繊細な魅力が溢れ出す。何度も通った道で、立ち止まらなければ決して気付かないであろう存在。大人になって立ち止まっても、眼下に見えるのは冷たい灰色のアスファルトだけだった。東京で見るのは目線よりも上にある春の桜が主だった。
散歩の途中で時々休憩している広場がある。入り口の近くに植っている木の根本付近には白詰草が茂っていた。何度も来ているはずなのに、茂っているそれらを白詰草だと認識したのは初めてだった。緑の葉っぱ達を見て、その中から四つ葉を探したくなる人は少なくないだろう。でも僕は同時にこう思った。四つ葉はおそらく見つけられないだろうと。息子を抱っこする僕の隣で、妻がしゃがみ込んで四つ葉がないか探している。そう言えば随分前に四つ葉のクローバーが挟まれた本の栞を買ったことがあった。目の前に茂っている葉っぱと同じ色だったかと考えた。今どの本にそれを挟んでいただろうか。どの本にも挟まれていなくて、どこかの引き出しに押し込まれている可能性もある。あれこれと考えている間に、妻が葉っぱを一つ掴んで立ち上がった。
指に挟まれた茎の先に付いた葉の数を確認した。4枚に見える。もう一度数えてみる。確かに葉が4枚付いている。買い物のついでに寄った短時間の間によく見つけられたなと思う。これから何か良いことが起こるのだろうか。見つけたのは僕ではないから、何も起こらないかもしれない。ポケットからiPhoneを取り出してカメラを起動する。近過ぎず遠過ぎず、ちょうど良い距離を探りながら中心よりも画面の角寄りに葉が写るように調整した。ポートレートではないけど、手前の被写体ははっきりとしていて背景は適度にぼけている。写真で見ても葉が間違いなく4つあることを確認したら、ポケットにスマホを突っ込んだ。3月も残り約半分になった。息子の写真は年始から少しずつ増え続けている。
四つ葉のクローバーを見つけられる確率は高くない。妻が摘み取った葉が風に煽られ小刻みに揺れていた。摘んだままのそれを手にして家に帰った。今はその白詰草がどこにあるのか分からない。じっくり眺めることもせずに片付けてしまったかもしれない。仮にもう一度探しに出かけたとしても、再度見つけられるかどうかは分からない。次にまた見つけられるかどうかよりも、1度でも見つけられたという記憶の方が心に残っている。その白詰草が僕に何かをもたらしてくれるかもしれないし、何も起きないかもしれない。事が起こったとしても、それが四つ葉のクローバーを見つけたことによるものかは断定しようがない。白詰草のおかげかもしれないと思いながら、心穏やかに過ごせたらと思う。