眠いほど機嫌がいい?
去年から始まった自宅での仕事。在宅での作業は捗る時もあるし、思ったよりも集中していない時もある。心も身体も一番良い状態のままで過ごせたらどれだけ楽かと想像するけど、現実は中々思い通りにはならない。でもそのこと自体を悲観しているわけではない。時間が刻一刻と進み続けるように、自分という人間も一定のままではいられない。言葉にできるかどうかは別として、昨日と今日と明日の自分は全く同じではないと感じている。僕の中心を通っているものは昔からほとんど変わっていなくて、昔よりは多少風に煽られてもへこたれることは少なくなったと思っている。曲げられないようにと意地になることがゼロにはならないけど、冷静になるまでの時間が短くなっている。ただ冷めていくのではなくて、咀嚼して極力自分の肥やしにしようと心掛けている。
息子の両脇に手を突っ込んで、ゆっくりと上に向かって持ち上げる。腕を伸ばしながら僕自身の身体の中心を感じて、その真上に息子が位置するように見上げる。目一杯僕が腕を伸ばすと、彼の頭頂部は家の天井に付いてしまう。彼もそのことを知ってか知らずか、人差し指で天井を突いている。今まで触ったことのないものに対しては、いつもそうやって感触を確かめているようだ。見上げた僕の視線と、見下ろした息子の視線が交わる。いつも床に座るかうつ伏せになって見ていたのとは全く違う光景に、辺りの様子をきょろきょろと伺っているようだ。身長の3倍以上の高さで身体を支えられている。もし僕が同じ状況にいるとしたら、かなり物怖じしてしまうに違いない。その高さから飛ぶわけではないのに、飛んだ後の光景を想像している。
首が座っていない間は、そんな豪快な遊びはできなかった。当然と言えば当然なのだけど、父親が子どもと遊んでいる光景で一番思い浮かぶのがそれだった。僕は仕事から帰ってきた父に玄関で抱っこしてもらった記憶はあるけど、天井近くまで抱えられたことがあるかどうか定かではない。今住んでいる家の天井が低いだけかもしれない。実家の方が天井には届きづらい気がしている。天井が高いか低いかに関わらず、いつまでも続けられる遊びでもない。息子は成長し続けて体重が増えていく。今はまだ10kg弱しかないが、いつまでもそのままではいられない。家で筋トレをしているとはいっても、僕が支えられる重量はいつか頭打ちになるはずだ。そして仮に僕が彼を持ち上げ続けられたとしても、息子本人がそれを望まないかもしれない。必然のことではあるけど、親としては正直寂しいと感じる。
生まれた時、いや妊娠が分かった時から自分の子どもであると同時に、自分とは違う人間なんだと思わずにはいられなかった。家族の人数が多くて僕自身は気付くのが遅かったけど、長年同じ屋根の下で過ごした兄弟姉妹であっても、意見が毎回完全に一致するわけではない。僕はそのことを寂しいと感じていたけど、皆僕とは違う時間の過ごし方をしているし、これまで会ってきた人達もそれぞれ違う。僕と同じことを皆も考えているだろうと思うのは、最初から個々の考えの違いを受け入れるつもりがないのかもしれない。必要なのは自分だけが唯一正しいと思うことではなくて、考え方は一つではないと思うことだ。自分で言っておきながら、僕は考え方を柔軟に変化させるのが得意ではない。だからこそ余計に自分の子どもではあっても、息子とこれからしばらく共有するのは時間と空間であって、決して彼の人格や個性ではないと言い聞かせるようにしている。
いつも勤務が終わった後に風呂に入るようにしている。息子はきっと1日の中で一番眠たい時間帯のはずなのに、ちょっとしたことでけらけらと笑っている。どうしようもないくらい眠たい時には、僕ならそんな風になれそうにない。でも眠た過ぎて裏返ってしまったような声で笑っている息子を見ていると、こっちまで笑いたくなってくる。本当に機嫌が良いのかどうか分からないけど、笑いたいだけ笑って風呂に入った後に熟睡できるのなら問題はないのかもしれない。夜通し寝続けることはまだまだ少ないけど、目を覚したと思っても自力で再び寝息を立てていることが増えている。そしていつの間にか自分から「寝る」と言い出し、夢の中で日の出を待つことになるんだろう。