鼻の下の傷
赤ちゃんが自力で動けるようになるにつれて、小傷が増えるのは避けられないことなのか。僕がいつも食事をしているローテーブルや、息子が離乳食を食べる時に座っている豆椅子が、息子にとっては手をかけやすい高さみたいだ。座った状態から片手もしくは両手で椅子の手すりを掴んだり、テーブルの上に向かって腕を伸ばしている。おそらくそのまま身体を腕で支えて立ち上がりたいのだろうけど、お尻がまだ重たそうで中々持ち上がらない。短い唸り声を上げた後に、すとんっと床に座り直すことになる。それ1回では終わらずに何度もその動きを繰り返している。他のことで気を引かなければずっとやり続けそうな雰囲気だ。いい意味で諦めが悪い。これまでもそうだったように、気付いた時には突然できるようになっているんだろう。
自分の身に何が起こったのかがよく分からなくて一瞬だけ混乱した後に、おそらく痛みのような感覚に襲われて泣き出している。どんどん目が離せなくなってくる。息子の鼻の下にはかすり傷が出来ていた。血は出ていないが、強めにどこかにぶつけたのだろう。目から溢れ出る大粒の涙、と文字に書くと大袈裟に感じるが、彼の涙はまさに文字通り大粒だった。柔らかいガラスのようにも見える。でも無機質なガラスとは違って、それには人間の体温由来の温もりが閉じ込められている。落ち着かせようと彼を抱きしめると、頬同士が重なる。肌が暖かいのか、それとも彼の頬を濡らした涙が熱を持っていたのかは定かではない。泣き声が口から出て、すぐに僕の片耳に流れ込んでいた。
気を紛らわせると、さっき自分が何かにぶつかったことを忘れてしまっているように振る舞っている。もし大人だったら、注意深くなって同じ行動を躊躇する状況かもしれない。でも何事もなかったかのようにまた同じことを繰り返そうとする。僕は彼の近くにはいた。でも無理矢理何かから遠ざけることもしたくなかった。あくまでも僕と比べての話だが、その小さな身体を鼻息を荒くしながら目一杯使っている。ただ目の前に掴まれそうな物があるから、余計なことは考えずに手を伸ばしてみただけ。椅子は筒状のパイプで作られているから小さな手でも掴みやすそうだ。テーブルは少し高さがあって軽々とは届かない。元々下半身の力は強かったけど、それだけで掴まり立ちが簡単には出来なさそうだった。
翌日になると、鼻の傷はほとんど見た目では分からない状態になっていた。彼ほどは若くない僕も代謝は良い身体を保っていると思っているけど、さすがに1歳未満の子どもには敵いそうにはない。そう言えば子どもの怪我による傷について話をする時に「女の子だから跡を残したくない」、もしくはそれに近い表現をしているのを聞くことがある。息子が男の子だから言っているのではない。男の子であっても怪我による傷はできるだけないに越したことはない。というか男の子の親としてはそう思う。そもそも傷があるということはそんなに損をすることなんだろうか。女性でなければ理解し難い事情があるのかもしれないが、身体の傷の有無で他人から見られた時の価値が変わるのだろうか。子どもの身を案じてのことだとは思うが、心身共に見た目も含めて健康的に保つことの価値に、性別による差はないと思う。僕が考え過ぎなのかもしれないが、もし何となく「女の子だから」という言葉を使っているとしたら、子ども本人にも知らず知らずの間に価値観を植え付けることになると思っている。
自分以外の誰かに傷つけられたとか、自分の行いが周り回って自分自身を損なうことが一度もないまま生き続けることなどできないと思える。2本の脚を常に前に向かって踏み出し続けているのに、一向に景色が変わらないように感じることもある。姿の見えない何かに肩を強く握られているのに、透明だから視覚では捉えられない。でも無理して歩き続けてはいるから身体のあちこちが痛んでくる。立ち止まったら一気に元いた場所に押し戻されそうな気がして、止まりそうになる足を動かし続けた。そんな風に重苦しい時間を1人で過ごす日々がいつかやってくるかもしれない。僕が経験したことを伝えることはできても、直面する事態に立ち向かっていくのは息子自身だ。価値観は彼がこれから少しずつ育て続ける。その手助けになればと思っている。