何度ぶつけても
子どもの後頭部を保護する為のクッションがあることを、CMで初めて知った時にはそこまでするのは過保護だと思っていた。息子が生まれてからもしばらくその考えに変化はなかった。最初は仰向けにしかいられないし、うつ伏せで移動したり自分で座ることもできないからだ。ただそれは生まれたばかりだからできないだけで、時間の経過や環境によってできるようになる可能性が多いにあるということだ。現に息子は寝返りはとても素早いし、自力で移動することができるし自分で床に座ることも難なくできている。できることが増えると、それまで全く危険だと思っていなかったことが気になり出すのは決して珍しいことではない。大人が生活する空間には角が多い物が溢れていることに気付く。机などの角を覆う柔らかい素材もあるが、それらがなければ僕でもぶつければ痛い経験をする。
息子は時々自分で何をやっているのか、もしくは次に起こるであろうことが予想できないことがあるようだ。器用にできなくて当然という前提はあるが、見ていて危なっかしいなと思う瞬間が少なくない。意気揚々と自分で座った後におもちゃを掴んでいる。両手で持ち上げるのと同時に顔が上がり背中が少し反り気味になる。首が据わっていても彼の頭が重いことに変わりはない。結果的に上半身が背中方向に傾いてしまって、そのまま後ろに倒れてしまうのだ。倒れた後にどうなるかといえば、痛みに耐える呼吸の溜めがあって、次の瞬間には溢れ出すように泣き声を上げる。強くぶつけてしまったと思っていても、けろっとしている時もある。そうでない時は思いっ切り泣き出すので抱き上げている。
座った時に毎回どこかに身体をぶつけているわけではない。倒れそうになった上半身を自ら起こして踏ん張る力もある。座ったまま掴んだおもちゃを床の上に置いて前後もしくは左右方向に、繰り返し動かす遊びをやっていた。バランスを保ちながら体幹を安定させて動いている。ハイハイの合間に何度も座り、こちらを見て何かを訴えかけている。彼と同じように僕もハイハイをしてみる。ウレタンのマットを敷いているのは部屋の床のほぼ半分だ。いわゆるリビングスペースの床は白いウレタンを敷き詰めているので、適度に柔らかい。キッチン側はマットを敷いていないので、今の時期はまだ少し床が冷たく感じる。長ズボンを履いていても固い床の上を四つん這いで動くのは快適ではない。床と膝が強く当たらないように気を付けながら、息子に近付いたり離れたりを繰り返す。
用心深いのかもしれない。ハイハイを少しするとすぐに床に座り込んでいる。気を引いて移動するように促してはいるけど、近くまで寄ってくるのには時間がかかる。壁の影に隠れて名前を呼びながら、頭を出したり引っ込めたりすると、気になって僕が見える位置まで自分で移動して近付いてくる。もうすぐ生まれてから9ヶ月が経とうとしている。去年の今頃は出産への不安だけではなくて、拡大しつつあるコロナウイルスへの不安も大きくなっていた。ウイルスの被害が拡大するにつれて、元々希望していた立ち会い出産への望みは薄くなっていった。何をどうしたって僕には病院の方針を覆すことなどできない。単純に僕の希望した通りになるかならないかの問題ではなかった。残念ながら亡くなった人達がいる。芸能人が亡くなればマスコミによって報道される。故人の意思を汲むこともなく繰り返しニュースになって知れ渡る。でも彼ら彼女ら以外にも、僕がその名前すらも知らず1度も会ったことのない人達が命を落とし続けている。そしてその突然の別れによって深い悲しみの中にいる人達はもっと大勢いることだろう。
お腹の中で問題なく育っている。立ち会えなくとも、出産させてくれる病院がある。医療従事者であろうとも、不安が全くゼロになることはないのだ。お腹から出てくる瞬間にその場にいられなくとも、その後長い時間を一緒に過ごすことになる。そうやって自分の気持ちを切り替えるのには少し時間がかかった。そして今は無事生まれて元気に過ごせていることに感謝している。終息する気配はまだ感じられないけど、必ずこの混乱を人類が乗り越えて新しい日常がやってくることを信じている。