10年前

 地元のスイミングスクールで働いていた僕は、その日スクールバスに乗っていた。市内のあちこちを運転手と共に移動しながら、バスが停車する度にレッスンに通う子ども達を迎えては1人ずつ名前を呼んで確認していた。名簿を挟んだボードと黒色のボールペンを持って、次々と乗り込んでくる子ども達であっという間に賑やかになる車内で、彼らがシートベルトをしているかを見て回っていた。スクールバスに乗って引率をしたのはその日が初めてではない。だから普段と特に変わったことがないまま、予定時間をほんの少しだけ過ぎてバスはスクールに到着した。でもバスを降りた後は、とてもではないがいつもと同じ1日だとは言えなくなってしまった。東日本大震災が起こってから10年が経とうとしている。

 スクールバスから降りると、同僚達やお客さん達がざわついていた。言い知れぬ不安を皆が抱えてはいるけど、どうしたらいいのか分からないとでもいった雰囲気に感じた。僕がバスに乗っている間にも、プールではスケジュール通りレッスンが行われていたが、突然の揺れで水面が大きく左右に波打っていたらしい。レッスン中はプールに人が出入りすることで、プールサイドは絶えず濡れた状態になる。ただその時は満遍なくというか、レッスンをやっていないプールの端までびしょ濡れになっていた。プールサイドに子ども達を上げるのも波が高く困難を極め、子ども達を一ヶ所に集めてコーチが身体を使って波から庇っていたそうだ。僕がバスから降りてプールの様子を確認した時にも、まだ水面全体が普段とは違い大きく揺れていたのが分かった。

 その時はまだはっきりと上京しようと決めていたわけではない。仕事にはやりがいを感じていたし、スクールに通ってくれる子ども達とも信頼関係を築いていると思っていた。でも地震が起こってからは自分が怪我一つせずに、そして家族の誰も欠けることなくいられることをありがたいと思わずにはいられない内容の報道が続いていた。今だって本当は毎日辛い思いをしている人は、僕が知らないだけで多くいると思う。ニュースで流れてくるのはコロナ禍の話ばかりだけど、コロナ禍だけが人を苦しめているわけではない。仮にコロナ禍が今のように混乱を招いていなかったとしても、もしくはコロナ禍自体がなかったとしても、常に命はどこかで消え続けていく。生きているということは当然のことではないということを、何度も考えさせられた。

 地震があって数年後に地元を離れて東京で暮らし始めることにしたけど、上京してから震災が起こり身内を全員亡くしたという話を聞いたこともあった。普段と変わりなく暮らしているように見える人も、自ら語らないだけで僕には到底理解し得ないほどの深い悲しみと喪失感を抱いていることがある。家族がいれば、例え元いた場所ではなかったとしても帰る場所はあるのかもしれない。その家族さえ失ってしまったら、もうどこにも帰ることはできなくなってしまうのか。理解しようとして自然と暗い顔になっていた僕に、酒のお代わりを勧めてくれる優しい人だった。自分は何も失っていないのに、足りない足りないとそれでも嘆いていたことを恥ずかしいと思った。僕が満ち足りないと思うことで感じる苦しみなど、痛くも痒くもないことだった。

 スイミングスクールを退職する前の最後のレッスンで、担当していた子ども達に少しだけ話をした。彼らにちゃんと聞こえていたかは分からない。他のクラスの子ども達もいたし、水の音もしていたから。でも僕は目一杯の声を出して伝えたつもりだ。他の誰かではなく、自分自身がやりたいと思えることに熱中してほしいと。子ども達に向かって放っていた言葉は、同時に僕自身への言葉でもあった。やってみて違うと思ったのなら、また違うことに挑戦すればいい。彼らにはそれができる若さと可能性があると思う。そして少しでも世界をよくしていける力を育んでほしいと思った。それは大学で受けた最後の英語の授業で、僕が同級生の前で発した言葉だ。あれから僕は世界を少しはよくすることができているだろうか。ただの綺麗事ではなくて、希望を持って生き続けることでその答えを知ることができると強く信じている。

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