おもちゃ箱になる前は
おもちゃが自分の家よりもたくさん置いてある同級生や友達の家に遊びに行くと、なぜか心踊る気持ちになる時期が確かにあった。そして同時に自分の家にないおもちゃと一緒に帰って遊びの続きをしたいとも思っていた。自分が買ってもらえないおもちゃが自宅にある友達を羨ましいとも感じていた。でも両親に、他の誰かが持っているから自分も買って欲しいと言った記憶はない。ただ僕は忘れているだけかもしれない。何せ20年以上前の子どもの頃の記憶だから。ゲーム機が、人形や乗り物で遊んでいたのに取って代わるようになってもその気持ちは変わらなかった。遊びに出かけても、さよならして家に帰ればそれっきりだ。次に遊びに誘ってくれなければ憧れていたそれらのコントローラーを握ることさえ叶わなかった。
おもちゃがたくさんあればあるほど、子ども達が過ごす毎日はより充実したものになるだろうか。そんな疑問を自分が子どもの時に考えた可能性は全くないと思うけど、身の回りの色々な物を掴んでいじっている息子を見ていると考えずにはいられない。わざとそうしているわけではないが、息子には既製品の玩具を買い与えることはほとんどしていない。買い与えること自体がいいとか悪いとか言うつもりもなくて、玩具を買い与えることと、遊ぶことは別だと考えているからというのが理由の一つと言える。自分の息子が家にある玩具とは呼べない細々とした物しか手に持ったことがないからといって、つまらなそうにしているかと言えば全くそんなことはない。実際はむしろその逆だと思っている。
例えば大人が欲しくて買った商品を包んでいた透明なビニールの包装紙は、丸めたりすることで音が鳴って興味を引くようだ。サランラップを使い終わった後の紙製の芯は、息子の手でも握りやすい太さなのか、自分で掴んでじっとそれを見つめたりしている。眠る時に被っている薄手のタオルケットは、自ら被ったりしがんだりして楽しそうだ。夕方になったらいつも干していた布団を降ろして敷いているけど、夕飯を食べる為に掛け布団は重ねて置いておく。それらの影に隠れるようにして、僕が顔を出したり引っ込めたりして息子の方をちらっと覗くと声を上げて喜んでくれる。市販の玩具は使っていないが、きっと彼なりに楽しめているんだと思う。玩具はあくまでも遊ぶ為の手段であって目的ではないんだなと考えるようになった。
既製品を買って遊ぶというのは、ある意味楽なことかもしれない。自分自身でゼロから何か遊べる物を作るというのは、僕も含めて誰もが簡単にできることではない。幸いなことに妻はミシンの使用を含めて裁縫が得意なので、ちょっとしたおもちゃを手作りしてくれる。最近は布と綿とマジックテープを使って、食べ物のぬいぐるみを用意してくれた。オムライスとスパゲッティに、数種類の野菜が添えられたプレートになっている。それぞれの料理と具材がマジックで土台にくっついていて、掴んで剥がすこともできる。剥がした後はまた再度くっつけることもできる。貼って剥がしてを繰り返しながら遊んでくれたらと思いながら、本人の目の前に置いてみた。当然ながら初めて見る物だから、最初は指で突いてみたりして様子を見ていた。でもすぐにオムライスをガシッと掴んで剥がそうとし出した。剥がせたらそれを齧ってみたり、すぐ貼り直したりするようになった。
こういう風に遊んでねと最初から用意されている玩具もいいが、特定の限られた遊び方が決まっていない物の方が、親も工夫しがいがあると思う。シンプル過ぎて足りないと感じるかもしれないけど、身振り手振りで雰囲気が伝われば子どもは喜んでくれるはずだ。バスケットボールを野球のボールの代わりに使おうとは誰も思わないだろうが、感覚的にはバスケットボールで本当に野球ができないか試している。子どもは素直だから生後8ヶ月でも正直な反応を示してくれる。例えつまらないんだろうなと思っても、それで彼らが文句を言うわけではない。その時は更に想像力を働かせて、創意工夫を重ねていけばいい。遊んであげているのではなくて、一緒に遊んでいるのだ。もっと子育ては自由でいい。