握ったら隠せそう
歯を磨くことは気持ちがいい。特に大人になってからそう思うようになった。子どもの頃から歯磨きをする習慣自体はあったけど、食後以外でも磨きたいとは思っていなかった。自分は一生虫歯にはならないと思っていたけど、何度かさぼっていたら奥歯に詰め物をすることになった。それ以上悪化させたくないという気持ちもあったし、単純に口の中が歯磨きをすることですっきりすると気分がいい。仕事の合間の息抜きも兼ねて歯ブラシを鞄に忍ばせることもあった。在宅勤務が始まってもうすぐ1年が経過しようとしている今は、ある意味いつでも磨くことができる。歯間ブラシや先が細くなった丸いブラシも一緒に使って丁寧に磨くことを心掛けるようになっている。そして幼い息子も今は一緒に歯ブラシを持っている。
歯が生えたからといって、すぐに歯医者に連れて行くことは珍しいようだ。身内に尋ねてもすぐには診てもらっていないとのことだった。息子はまだ下の歯の先端が歯茎から覗いているだけで本数も限られているから、磨くというよりも口内に何かが入ることに慣れる為に使っている。離乳食の後に口の中を拭う為の水分を含んだシートを一箱と、誤飲を防止するパーツの付いたシリコン製のブラシを購入した。毎食食べ終わった後に、シートで包んだ指の先を息子の口の中に少し入れて歯と歯茎をマッサージするように動かした。あからさまに嫌がりはしない。でもやはり初めてのことだから戸惑っているようだった。僕だって誰かの指が口の中に入って来て、ぐりぐりされたら穏やかではいられないと思う。
その後もシートが無くなるまで使い続けて最後の1枚になった。前回までと同じように口の中を拭った後で、一緒に購入した歯ブラシを手に持たせてみた。喉まで入らないようにする為の、おしゃぶりに付いているようなパーツも取り付けた。新しいおもちゃだと思っているのかもしれない。ブラシの先端とは反対側を齧ろうとしていた。持ち直させてブラシを口の中に少し入れてみる。さすがに前後に動かすのは難しいようだ。僕も歯磨き粉が乗った歯ブラシを息子に見せた後に、彼の目の前で歯磨きを始めた。何をしているんだろうと言いたげな表情でこちらをじっと見ている。動きをそのまま真似てくれたらいいのだけど、かろうじてブラシの部分を噛んではいるが、それは磨いている動きとは程遠いものだった。でも今のところはそれが口に入れる物だと分かってくれるだけでも進歩だ。
健康的な習慣だけを真似してくれたらと思う。とはいっても今の僕は稀にしか酒を飲まないようになったし、喫煙習慣だって昔からない。どちらも最終的には本人がどうするか決めることだけど、過ごす時間を豊かなものにする選択をして欲しいと思っている。今僕が健康だと思っていることが、ずっとこの先も同じ認識のまま続くとも言い切れない。自分の健康を自分で守る為の習慣を今から身につけてくれたらそれでいい。オレンジと白に塗られたブラシの柄の部分を鷲掴みにしながら、息子はいつまでも僕の口元を見ていた。もっと歯が生え揃ってきたら仰向けになって「仕上げはお父さ〜ん」と口ずさみながら磨くことになるかもしれない。嫌がらずにやってくれたら嬉しい。
僕が握ったら手の中に隠れそうなその小さな歯ブラシを預かって、洗面台に取り付けられたトレイの淵に引っ掛けた。そう言えば実家にいた時は、家族それぞれが自分が使うブラシと分かるように油性ペンで名前を書いて、セロハンテープを上から一周巻いて立て掛けていたことを思い出した。でも立て掛ける穴が実際の人数よりも少なくて、誰かはそのまま横にして置くことになっていたことも。学校に行く前の歯磨きはすぐに終わらせられたのに、夕飯を食べた後の歯磨きは眠気を押しのけながらの作業になっていた。虫歯になりたくないと思うのと同時に、少しでも早く布団に横になりたいと思った。大人になって全ての歯が生え変わった後は、それ以上新しい歯が生えることはない。そのことをもう少し真剣に考えるべきだったと今は思う。僕が毎日磨いているのは、更なる健康への意識だ。